太陽に焦がれる蝙蝠



―――嗅ぎ慣れた硝煙と香水の匂いに、吐き気がする。




何故、この匂いに慣れてしまっていたのか、今では理解不能だ。
信じられない。



早くここから抜け出して、君の傍にずっといたい。
でも、それは叶わぬ願いだと、自分自身で気が付いてるさ。




嗚呼、今の俺はまるで地下室から太陽を欲しがる蝙蝠になったみたいじゃないか。






手を伸ばしても、届かない。
届いたとしても、それは束の間の幻。






―――けして、この腕に捕まえている事は出来ない。












アリスの家を強引に訪問してから、3日が経つ。
あれから、アリスとは全く連絡を取っていない。
否、忙し過ぎて連絡を取る時間もないのだ。
“久しぶり”に会ったアリスは変わりなく、コロコロと変わる表情も、愛らしい顔も、心地良い声も全て愛おしい。


火村はこの3日間、アリスの事を思い出してはあまり品の良くない笑みを浮かべ、部下に不審がられていた。
今だってそうだ。
片手で口元を隠し、まるでポージングしているかの様に一点を見つめている姿はモデルのようで様になっているが、本当は3日前のアリスを思い出してニヤニヤと笑っているだけなのだ。
ちょうど、サングラスで目元が隠れ、口元も手で覆われているので、運転手にはバレていない。
むしろ、車の窓に写る流れる景色に物憂い気分になっていると、勝手に勘違いしている。


「着きましたぜ。」


運転手のダミ声で、急に現実世界に戻った火村は、口元にあった手を離し、黒塗りのベンツから降りた。
着いた場所は“Honey Girl”。
火村行きつけの風俗店である。
チカチカと電球が光る表の看板が、店の安っぽさを強調している。

店に入った瞬間、化粧の匂いと女物の香水が何種類も混ざった、不快な匂いが鼻を突いた。
中から出迎えたのは、2人の顔見知りのボーイと、ここで働く下着姿の3人の女性。
どの女性も、キツい化粧をしていてあまり好ましいとは言えない。

火村はここに来る度、「ここじゃ、勃つモノも萎える」と心の中で苦笑していた。
そう火村が言う割には、客は入っているようだが。
3人の中の1人は、火村の腕に自分の両腕を絡め、上目遣いで火村を見た。


「火村さぁん、いらっしゃ〜い。」


それに負けじと、もう1人が火村のもう片方の腕に両腕を絡める。
2人の化粧と香水の匂いが、火村の鼻にまで伝わり、思わず眉をひそめた。


「ご無沙汰じゃなぁい?」
「今日こそは、私を指名してくれるよねぇ〜?」


甘えるように火村の腕にしがみつく2人の手を振りほどく。


「悪いが、また一人になりたい。奥の部屋借りるぜ。」
「はい、どうぞ。」


そう言うと、ボーイの1人が火村を奥の部屋へと案内した。
火村の背中を見送る女性達に、1人の新人ボーイが声を掛けた。


「あの・・・」
「何?」
「一人になりたいなら、何故風俗なんか来るんですか?」


明らかに他の客とは違う火村に、不審がるボーイ。
確かに、女性と時間を過ごす事―それ以上もするが―を目的としたこの店で、“1人になりたい”というのはおかしい。
ボーイが怪訝な顔をしていると、1人の女性がそれに答えた。


「嫌いだからよ。」
「何がです?」
「綺麗過ぎる表社会が。綺麗な物が嫌いなのよ。だから、ここに来るの。あの人には、この薄汚い店が落ち着ける憩いの場所なのよ。」


そう。
1人になるなら、家でもどこでも良いはずなのだ。
しかし、火村はわざわざここを選ぶ。


「へぇ、変わった人だな。」
「でも、私達にとって良いお客様よ。」
「変な事しないし、紳士だし。」
「お金は、はずんでくれるしね。さぁ、お喋りはこの位にしましょう。」


そう1人の女性が言うと、それを合図に皆仕事に戻って行った。












火村は、1人でいるには広過ぎる部屋で、ただ椅子に座りボンヤリとドアを眺めていた。



女の喘ぐ声。
化粧と香水が混じった香り。
ギシギシと軋むベッドの音が、遠くに聞こえないと1人になった気がしないのだと言う。


別に、それに興奮するわけでもない。


男と女。

2つの性が交じり合うこの場所で、1人でいる事。
それに、それだけに孤独を感じるのだ。
表社会云々は、ただの言い訳でしかない。




火村は、この行為を何年も繰り返していた。
どうしてこんな行為を行ったのか、それすらも思い出せない。


ただ、ここでこうしている事が何となく落ち着いていたし、楽になれた。






だが、今回は違った。


女の喘ぐ声も、
化粧と香水の混じった匂いも、
ベッドが軋む音も、


全てが不快でならない。

一体どうしてしまったのだろう。







―――嗚呼、そうか。

アリスに出逢ってしまったからだ。




アリスに出逢ってから、自分は変わってしまった。
たった3日前の出来事だが、火村には充分過ぎる時間だ。





「やっと、俺は人間になれたのか。・・・遅ぇ。」





綺麗な物を綺麗と思える心。
愛しい者を大事にしたいと思える心。

それがやっと、火村の中に芽生えたのだ。
アリスのおかげで。




火村は天井を仰ぎ、そのまま目を閉じた。





―――瞼の裏に、アリスが居た様な気がしたから。