名君の不在




一般庶民のアリスには、あまり馴染みのない立派な門構えのお屋敷。
門から見える庭には松の木が何本も植えられており、敷地を囲う塀からもそれが突き出ているのが見える。
立派な木製の表札には大きな文字で、“火村組”と彫られている。
映画のセットのような、いかにもな家にアリスは開いた口が塞がらなかった。
ヤクザに急に“嫁になれ”と言われ、2度目に会っていきなりそいつの家に招待されたのだ。
“事実は小説より奇なり”とは、まさにこの事だ。





帰りたい。

帰って暖かいベッドで寝たい。

そして、これが夢オチだったらなお良い。




と、半ば現実逃避をしてもそれは仕方がない。


「あら、お客さん?」

「奥様、いらしてたのですか?」


声のする方を振り向くと、品の良い老婦人がこちらに歩いて来た。
藤色の着物がよく似合っている。
鮫山が話している内容を解釈すると、どうもこの人はこの組の関係者のようだ。
イメージにぴったりのこの家の印象もあり、某映画のイメージを持っていたので女性と云えどももっと気の強い女性を想像していた。
だが、彼女は組の関係者というより、料亭の女将のような上品で柔らかく優しい雰囲気がある。


「ええ、ついさっき。それより、お客様を私に紹介してくれないかしら?」

「失礼しました。こちらは、若の婚約者の有栖川さんです。」


鮫山は老婦人に一礼して、アリスを紹介する。
アリスは了承した覚えはないが、鮫山は火村からの誤った情報をそのまま伝えているに過ぎない。


「まあ、貴方がそうなのね。初めまして。英生の母の時絵です。」

「初めまして。有栖川です。」


深々と頭を下げる時絵につられて、アリスもお辞儀をする。
顔を上げると、にっこりと微笑む時絵の顔があった。


「こんなに可愛らしい方だとは、思わなかったわ。」

「えっ、いや、あの、」


私も貴女があんな非常識な男の母親だと思いませんでした、と言いかけた言葉を飲み込んだ。
お辞儀したものの、自分は火村の婚約者―そもそも、男同士という事に違和感を持たないのだろうか―ではない。
時絵に好感を持ったアリスは、彼女を傷付けない否定の言葉を見付けれずあたふたしていた。


「母さんもアリスも、中に入ったらどうだ。」

「そうね。ほら、皆もお入りなさい。」


それを知ってか知らずか、図ったような火村の一言に表に出ていた組員が屋敷の中に入っていった。








「もしもし。」


屋敷の中へ入ると同時に、火村の携帯が鳴った。


「だからそれは・・・ああ、俺は行けないぞ。・・・いや、今家だが。」


どうやら、仕事先で不都合が生じたらしく、火村が出て行かなければならないらしい。


「若、何のご用でしたか?」

「例のやつだ。しくじったんだとよ。」

「では、若が行かなければいけませんね。」

「アリスがいるのにか。」

「はい。」

「アリスと一緒にいないで、あんなむさ苦しい中年どもに囲まれろと?」

「はい。」


火村は心底嫌そうな顔をした。


「貴方ももう子供じゃないのよ、英生。それにアリスさんとは、いつでも会えるでしょう。」


火村は折角アリスが家に来ているというのに仕事なんかしてられないと、子供の様に駄々をこねたが鮫山と時絵に説得され渋々仕事へ向かった。
玄関先で肩を落としながら出て行く火村は、哀愁を帯びていた。


「じゃあ、俺も・・・」


アリスもそれに乗じて帰ろうとしたが時絵に阻まれ、今広い座敷に時絵と机を挟んで向かい合っている。
机の上には、ごく一般的なお茶とお茶請けが置いてある。
先程、車の運転をしていた可愛らしい顔の彼が持ってきたものだ。


「視線を感じる・・・。」


襖の外から、何やら不特定多数の視線を感じる。
アリスがぼそりと呟いた言葉に、時絵は苦笑するしかなかった。


「ごめんなさいね。ウチの子達、貴方に興味があるのよ。」


ウチの子達というのは、組員の事だろう。
庭で見たあまり人相のよろしくない顔の青年又は中年男性を“ウチの子”と言えるからには、やはり彼女も只者ではないのだな、とアリスはふと思った。


「あのですね、」

「英生と仲良くしてくださいね。」

「・・・はあ。」


時絵の有無を言わさぬ笑顔で、アリスは反論も出来ずにただ生返事をした。
時絵は息子の婚約者と会っているだけあって、始終笑みを絶やさず少々早口で喋っている。
浮かれているのが、見て容易に分かる。
アリスは、そんな時絵を騙しているような罪悪感が芽生えて始めていた。






本当は自分は婚約者ではないし、なりたいとも・・・





いや、思ってないのだろうか?

初めて会った時とは、違う感情。
否、初めて会った時からあった感情が急激に育ったと言った方が近い。


モヤモヤする。
自分の心の中が、曇りガラスで覆われている気分だ。
見えそうで見えない。
自分の事なのに、違うものを見ているようだ。



時絵への罪悪感も、もうすっかり忘れていた。






「あの、お手洗いは・・・」

「そこの角を右に曲がってすぐよ。」


どこでも良いから一人になりたかったアリスは、立ち上がり部屋から出て行った。

廊下を歩き、角を曲がると何かにぶつかった。


「うわっ。」

「あっ、あの」


見ると、そこに組員が立っていた。
灰色のスーツに黒色のシャツ、金のチェーンを首に巻いている。
組員は、ぶつかった相手がアリスだと知ると焦りながらアリスに声をかけた。


「何ですか?」

「若をよろしくお願いします。」

「へっ?」


組員は、上半身と下半身がピッタリくっつくと思うくらい深くお辞儀をした。
そして、突然の事に呆気に取られていたアリスに、火村の長所を話し始めた。
その饒舌ぷりに、圧倒される。
そして、若は日本一いや世界一の男だから離さないでやって欲しい。
この組を2人で更に大きくして欲しい、と熱を入れて延々と話すのだ。


「すいません。お手洗いに行かせてください。」


最初は素直に聞いていたのだが―お人好しな性格が災いした―だんだんウンザリして逃げ出した。
だが、角を曲がって数歩歩いてまた別の組員に捕まり、それから逃げられたと思ったらまた別の組員に捕まりと、何度も同じ事を繰り返していた。
いい加減それに疲れたアリスは、溜息を吐いて肩を落とした。


「どうされました?」

「いや、何でも。」


向こうから、可愛らしい顔の組員がやって来た。


「そうですか。」

「ここの人は、あいつ・・・いや、火村が好きなんですね。廊下を出たら、口々によろしくお願いされました。」

「そうですね。若は、俺らの憧れですから。俺からもよろしくお願いします。」


そう言って、組員もまたお辞儀をした。
火村が組員に愛されている事が、ひしひしと伝わる。






時絵に帰る挨拶をして、アリスは屋敷から出た。
玄関から庭まで組員が並び、アリスを送り出してくれた。


「送ります。」

「ありがとう。」


先程の可愛らしい顔の青年が、車のドアを開けてそれにアリスは乗り込んだ。