紅い指を女神に隠す




アリスと森下が真壁組事務所から解放されたのは、深夜12時を過ぎた頃だった。
それまで気を失っていたのかと思うと、正直もう一発くらい殴ってもいいんじゃないかと思ってしまう。
自由になった二人は、広い応接室を横切り玄関まで片桐に案内された。
誰もいない応接室は任侠映画のセットの様で、またアリスの職業病が働いた。
本当ならば、こんな場所に無理矢理連れて来られてるのだからジロジロと部屋中を観察する余裕はないのだが、アリスは違っていた。
小説家とは何と悲しい職業だ。
玄関のドアを片桐が開け、アリスと森下が外へ出た。


「お送りしますよ。」

「結構だ。」


胡散臭い笑顔を、森下が一刀両断した。


「じゃあ、またお会いしましょう。今日はすいませんでした。」

「二度と会う事はない。」


本当に反省しているのか怪しい言葉を、冷たく斬る。
心なしか、目が先程より鋭く光っている。


「森下君じゃありませんよ。ねぇ。」

「この人も、だ。」

「そうでしょうか?」

「何が言いたい。」


森下の後ろにいるアリスを覗き込み同意を求める片桐に、森下の機嫌は急降下だ。
番犬よろしく片桐を睨みつけるが、当の本人には全く効いてない。


「森下さん。行きましょう。」


一触即発状態の森下を宥め、二人は事務所を後にする。
近くの大通りでタクシーを拾い、夕日が丘を目指した。
途中二人は何も喋らず、それを察してかタクシーの運転手も何も喋らなかった。
アリスのマンション近くの通りで二人は降り、アリスはそのまま一人で帰ろうとする。


「じゃあ、ここで。」

「いえ、お部屋までお送りします。」

「ここは人通りも多いから大丈夫。森下さんこそ早く帰らないと、火村に叱られるんやない?」

「いいえ。ここで有栖川さんを無事にお部屋までお送りしなかった方が、若に叱られます。」

「困ったな。」


随分頑固な森下の申し出をどう断ろうか悩んでいたら、森下の左腕から血が流れてた跡を見付けた。
恐らく、拉致された時に出来たものだろう。
もう、血が凝固しているとはいえかなりの量が流れている。
何故、さっきまで見付けられなかったのか不思議なくらいだった。


「森下さん、血が。」

「どこですか?」


慌てるアリスとは裏腹に、自分の事なのに淡々とした森下は左手を見て

「ああ、道理で痛かった筈だ。」

とだけ言ってそのまま放っておいた。


「やっぱり、俺の部屋まで送ってください。手当てしましょう。」

「お部屋までお送りくるのは当然ですが、こんな怪我舐めれば治りますよ。貴方が心配するほどじゃありません。」

「いいから、早く。」


森下の右手を強引に引っ張りながら、アリスは帰路についた。













「はい、ここ座ってください。」

部屋に着いたアリスは、森下をリビングのソファに座らせ救急箱を取り出した。


「いいです。自分でやります。」

「何言ってるんですか。ほら、手を出して。」


立ち上がる森下を無理矢理座らせた。
それでも、嫌がる森下の左腕を掴み自分もソファの近くに腰を下ろす。


「ですから、」

「早く。」


アリスの強い意志に観念した森下の腕を捲って、固まった血を拭き取った。
傷自体はそれほど酷くはなかったし時間もかなり経過しているが、念の為消毒をする。


「俺は、本当は森下さんに守られる立場の人間じゃない。」

「何を仰いますか。若の大事な人を守るのは組員として当然です。」


黙々と手当てをしていたアリスが、突然口を開いた。
森下にとっては馬鹿馬鹿しいくらい否定的な発言だったが、アリスにはそうでもなかったらしい。
アリスは森下に顔を見られない様に俯き、眉を顰めた。


「・・・大事な人か。それって、本当に俺?」

「勿論です。」

「火村の勘違いって事はない?誰かと俺を間違えてない?」


アリスが何を言いたいのか、そして何を言って欲しいのか全く見当の付かない森下はただ首を捻るだけだった。
何故、あれだけ愛されているのにそれが分からないのだろう?
第三者である自分だって、火村がアリスを大事にしてる事は一目見れば分かるのに。


「いいえ。どうして、そう思うんです?若は昔から、貴方しか見ていなかった。」

「昔から?」

「えっ、いや、その」


失言をした、と後悔しても時既に遅し。
アリスは怪訝な顔をしてこちらを見上げている。


「昔から、ってどういう事?俺は火村と、」

「すいません。夜分遅くに失礼しました。」

「森下さん!!」


襤褸を出す前に森下は立ち上がり、アリスの手を振り払って玄関に向かって走った。
アリスはその背を追うが、追い付く前に逃げられてしまった。
バタンと、大きな音を立て、ドアが閉まる。


ドアを見ながら、アリスはしばらく立ち尽した。

















息を切らしながらマンションから逃げ出した森下は、玄関で見覚えのある車を見付けた。
街灯の明かりだけしか光はないが、あの廃車寸前のフォルムは間違いない。
その車に凭れかかって煙草を吹かしているのは、自分の上司だった。


「よう、森下。」

「若・・・。」

「何でお前がアリスのマンションから、出て来るんだ?」

「しかも、俺の車がないよな。なあ、どういう事だ森下。」


この人に騙しは通用しない。
しかし、真実を言えば自分の生命自体危ない。
森下は、地と頭が付くくらい土下座した。


「申し訳ありません。」

「乗れ。言い訳は中で聞く。」

「はい。」


助手席を開けられ、重い足取りで車に乗った。


「有栖川さんに会わなくて、よろしいんですか?」

「良いんだ。あんな汚れ作業をしてきた俺に会ったら、アリスまで汚れる。」


そう言えば、今日は火村組の傘下が敵対していた組を念願叶って潰しに行ったのだった、と森下は思い出した。
本当は火村なしでも楽に出来た筈なのだが、手違いで火村自ら現場に行く羽目になった。
いくら火村自身が手を下していなくても、指示したのは火村である。
森下は、軽く溜息を吐いた。


「気に病む必要なんてないのになあ。」

「何か言ったか?」

「いえ、別に。」


森下の独り言は、流れるネオンの中に消えた。