等価交換のススメ
あれから数日後。
アリスは、先輩作家の朝井に呼び出され大阪のとあるバーに居た。
精一杯明るく振る舞っていたのだが、本当はこんな場所で楽しく飲むにはまだ傷は癒えていない。
朝井は後輩のそれをを察知し、心配そうな声でアリスに話しかけた。
「どうしたん?あんたらしくない。」
「いや、別に。」
朝井に指摘され笑おうとするが、無理に笑おうとするので不自然な笑顔になる。
それがますます朝井を心配させる結果になった。
眉を八の字に歪ませる先輩作家は、持っていたグラスを置きアリスの顔を見つめた。
「別に、って顔やないやないの。何かあったの?」
首を横に振るだけのアリスに、朝井は優しく笑いかけた。
「もう、この小夜子姉さんに何でも話しなさい。ただし、あんたが書く予定の小説についてだけは答えられへんけどね。」
ドンと、自分の胸を叩き少々オーバーなジェスチャーに、アリスも思わず笑ってしまう。
「・・・朝井さんは、好きな人っていますか?」
「うん。いるよ。その様子だと、アリスにもいるみたいやね。」
「正確には、好きだった人ですけどね。もう、アイツには会えないから。」
苦笑気味に、まるで過去の失恋を思い出すようなアリスの言葉に、朝井はただ耳を傾ける。
酒を飲む手が二人とも止まり、二人を纏う空気に独特の静けさが流れた。
「どうして?会ったら良いじゃない。」
「あっちから会えない、って言われました。」
「理由は?」
「多分そうじゃないかな、って思うのはあるんですが確証がないからどうにも。」
手元の琥珀色の液体が入ったグラスをジッと見つめるアリス。
グラスの中の氷は程よく溶け、室内が暖かいからかグラスは汗をかいている。
「それは、アリスが悪いの?相手が悪いの?」
「どっちも悪くないんです。ただ、相手が怖いんじゃないかなあって。」
「怖い?」
「俺に会うのが怖いんです。俺に会えば、また大切な何かを失うんじゃないかって思うんでしょう。きっと。」
この間の誘拐騒動。
きっと、それが原因だとアリスは思っている。
あの時片桐は、森下が狙いだと言っていたけど本当は自分なんじゃないのかと疑っていた。
後々考えれば、娘が家出したからといって他の組の組員を誘拐するはずがない。
自分のところの娘が婚約破棄され、その後釜になった―勝手に火村が選んだのだが―を見てやろうと思ったのではないだろうか。
わざわざ尾行していたのに、火村組の護衛されていたのが男で火村の婚約者でないと分かったから、あんなにあっさりと返してくれたのだ。
まさか、片桐も火村組の次期後継者という地位のある者が男色家だとは思わなかったのだろう。
そうに違いない。
だが、そのせいで森下が酷い目に合っている。
人違い―だとあっちが思っている―でもあそこまで暴行されたのだ。
本当の婚約者だと名乗ってしまったら、その護衛に就く部下の身も危うくなる。
あの夜の森下の痛々しい体は、今でもアリスの目に焼き付いている。
部下に二度とこんな酷い目に合わせない為にアリスを捨て、別れを切り出したのだ。
全ては、組員を守るために。
それが、アリスの出した答えであった。
アリス自身が危ない目に会うかもしれない、という考えは本人の頭の中には全くなかった。
「話が見えへんわ。何で、アリスとその人が会うと失うの?」
「そういうものなんです。」
首を傾げる朝井に向かい、小さくそして悲しく微笑む。
「ねえ、アリス。話が全く分からないけど、失うだけじゃないんじゃない?」
「えっ?」
朝井は、グラスを回しながら言った。
カラカラと、氷がグラスにぶつかる音が聞こえる。
「月並みの言葉だけど、得る物があればそれと同等の価値の物を失うって云うじゃない。」
朝井の慰めの言葉に、アリスは驚くしかなかった。
「きっと、失う物しか見ていないから怖いなんて言うんやわ。大切な物を失うなら、その分得る物がある筈だと思わない?」
「そんな・・・」
アリスは、異議を唱えようとした。
そんな訳がない。
火村にとって、部下はなくてはならない大切な人々。
そんな人達にに、自分が取って代われるわけがない。
自分は二の次三の次の存在だからこそ、火村に切られたのだ。
それに、いくら幼少の頃だからといって、あんな大事な約束を忘れた自分を今更大事にしてくれるわけがない。
なのに、それを上手く朝井に事の詳細を知られず伝える言葉が出てこない。
小説家として何と情けない。
「屁理屈だと思うでしょ?でも、結構これが合ってたりするのよ。」
口を噤むアリスに、朝井は笑う。
きっと、賛同されたと思ってるのだ。
「大丈夫、あんたの想い人だもの。それに気付く時が来るわ。だから、元気出しなさい。」
「ありがとうございます、朝井さん。」
頭を軽く小突かれ、アリスは少しだけ自然に笑えるようになった。
それを見て安心した朝井は、アリスのグラスに並々と酒を注ぐ。
「ほら、飲んで飲んで。今日は私が奢るわ。」
「えっ、朝井さん。ちょっと、」
アリスのグラスから、とうとう琥珀色の液体が溢れ出した。