さよなら、僕のご主人様




険しい顔で玄関で待つ火村に、片桐は気付かぬ振りをして笑顔で対応した。


「おや、火村の若様。一体どうしたんですか?」

「真壁は居るか?」

「ええ、居りますよ。」


真壁の所へ案内しようとすると、何かを担いだ森下がやって来た。
火村に置いて行かれ、しかも重い荷物を背負っている為息は軽く切れている。


「若、待ってください!!」

「赤星さんが、こんなに傷だらけなんて一体どうしたんですか?」


森下に背負われているのは、ボロボロになった赤星だった。
呼吸はあるが、気を失っている。
片桐は、目を丸くした。
まさか、ここまで火村にやられるとは思っていなかったからだ。
良い意味でも悪い意味でも、目の前の男は恐ろしいと改めて実感した。


「片桐。お前、よくこいつの名前知ってたな。」

「何度かお見かけした事がありますから。すぐに、手当させましょう。」


片桐が赤星に触れようとすると、火村が冷たい声でそれを制した。


「いい。そのままにしておけ。」

「ですが・・・。」

「俺が良いと言ってるんだ。真壁は奥の部屋か?」


今までに聞いた事のない無慈悲な声。
片桐は、震え上がりそうな恐怖心を精一杯押し殺し対応した。


「はい。ご案内しましょう。」


組長室をノックすると、真壁の気の抜けた声が聞こえた。
片桐がドアを開け、火村と荷物を背負ったままの森下を通す。


「これはこれは、火村組の若様。今日は一体どの様なご用件ですか?」


何も知らない真壁は、読んでいた新聞を畳みながら笑顔で火村に挨拶をした。
火村は真壁に勧められて、勢いよくソファに座る。
真壁は、まだ火村の顔が不機嫌である事に気付いていなかった。
否、真壁にそういった能力が欠けていたといった方が正しいのかも知れない。
現に、片桐は自分の撒いた種であるにも関わらず、内心ハラハラしながら二人の様子を窺っている。


「コイツに見覚えはあるか?」

「いいえ。全く。」


森下の背負う赤星を見やると、真壁は首を横に振って答えた。
それはそうだ。
彼は、片桐のやった事なんて全く分からないし、同じ建物内に自分の娘が居る事すら知らないのだ。
他の組の、しかもあまり名の知られてない組員なんて気にも留めていないだろう。


「じゃあ、これは?」

「こんなもの、書いた覚えはありません。それに、これは片桐の字です。」

「片桐の?」


火村が差し出したのは、赤星の部屋にあった手紙。
真壁はそれを受取って読むと、苦笑しながら火村に返した。
確かに、これは片桐の書いたものである。
しかし、火村はこれを真壁のものだと思い込んでいた。


「何を仰いますか。これは、貴方が書いたものじゃないですか。」


そう言うと、片桐は机の上にあったボールペンと新聞紙を取り、左手で真壁の名前を書いて見せようとした。


「いいですか、僕の字は、」

「良い。」


新聞紙にペンが触れようとした時、火村がそれを止めさせた。
片桐は、わざと怒った様な声を出す。


「ですが、このまま誤解されては、」

「お前が、これを書いてない事はよく分かった。嘘はいけませんね、真壁さん。」


何故、火村が片桐ではなく真壁が書いたものだと誤解しているか。
これも、片桐の計算だった。

一つ目に、これまで火村組に送られてきた公的な文書は、全て片桐が書いていたという事にある。
真壁の右腕である片桐がこう言った事務もこなしていた為、火村にとって片桐の字イコール真壁の字なのだ。
義兄弟の杯の時は別だったが、当事者でもない火村が書類をジロジロと見るわけもない。
わざわざ癖字にしているのも、癖字イコール真壁の字と印象付ける為である。

二つ目に、片桐は左手で書こうとした事。
右手で縦書き便箋に文字を書こうとすると、多少擦れた字が出来る。
火村が持参した便箋にはそれがあった。
つまり、これを書いた人物は右効きであり、二つの事から片桐ではない事を示している。
だが、その癖字も左手で書いた事も業とだという事には、気付かなかった様だ。


「違う!本当に私じゃない!!」

「貴方が何を企んでいたのかは知りませんが、俺を陥れようなんてナメた真似しますね。」


濡れ衣を着せられ声を荒げる真壁を見て、片桐はほくそ笑んだ。
嗚呼、何て滑稽な姿だろう。
どんなに言い訳を並べ立てても、火村が聞き入れてくれるわけがない。
むしろ、言い訳をすればする程怪しまれる事に、何故気が付かないのだろう。


「真壁組を壊滅させる事なんて、俺には簡単なんですよ。」


そうだろう。そうだろう。
火村組にとって見れば、真壁組なんて蟻を潰すに等しいくらい簡単な事だ。
さっさと、こんなゴミの様な組を潰してくれ、と笑いながら頼んでしまいそうだった。


「何時かの抗争を、もう一度やりましょうか?」


火村のこの言葉で、先程までの高揚感も消えてしまった。
今にも火村の足下に縋りつきそうな真壁は、必死に訴える。


「待ってくれ!本当に誤解だ!お前も何か言え!」

「もう、何を言っても遅いですよ。諦めましょう。」

「お前まで何を言い出す!私は何もやっていない!何もやっていないんだ!!」


真壁の訴えは本当の事なのだが、火村と森下には悪あがきにしか見えない。
部下が認めているのに、必死にもがく姿は何とも醜いものだ。


「往生際が悪いですね。」


火村は立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。


「どこへ行くんです?」

「帰るんですよ。もう、ここには用はないですから。」


森下に目交ぜすると、そっと赤星を背から降ろした。
そのまま、身軽になった森下も火村の後を付いて行く。


「置き土産です。貴方のお嬢さんのお気に入りのようですから。」


組長室のドアがパタリと閉まり、二人は出て行った。


「片桐、これは一体どういう事だ!!あれは、何だ!!」

「さあ?何なんでしょうね。」


片桐は、人を喰った様な笑顔をした。
真壁はそれで何もかもを悟った。


「貴様・・・私を騙したな。あれ程、お前に目を掛けてやった恩を忘れたか!お前の主人は私だろう!!」

「いいえ、僕の主人は他のお方です。貴方じゃない。」


片桐は、赤星に近付き肩に手を回した。
意識のない赤星は重かったが、そんな事言っている場合じゃない。


「その男をどうするんだ。」

「病院へ運ぶんです。それが、あの方の望む事だろうから。」


ドアを開け、ただ茫然と立ち尽くす真壁に吐き捨てる。


「さよなら、真壁聖一。貴方に仕えて、こんなに人生を無駄にしたと思った事はありませんでしたよ。」










それは、片桐が初めて真壁に告げた本音だった。










「待って。私も行く。」


赤星を引き摺りながら廊下を歩くと、朝井が片桐を止めた。


「では、必要な荷物を持って来てください。」











「この汚らしい場所から逃げましょう。」











ニコニコといつもの様に笑いながら、然も常識の様に言った。












後部座席に赤星を乗せ、助手席には朝井を乗せる。
片桐は、上機嫌で病院まで運転手を務めた。


「ねえ、どうしてこんな事をしたの?」

「何の事ですか?」


朝井の問いに惚けてみせる片桐。
笑みが零れる片桐とは裏腹に、朝井の顔は険しかった。


「惚けないで。火村組に睨まれたら、真壁組は御終いやないの。貴方が計画した事でしょう?」

「お嬢様には勝てませんね。そうです。全て僕の仕組んだ計画です。」

「分からないわ。そんなにあの男が嫌になった?」


真壁組の頭脳と言われ、父親の右腕として今まで働いて来た片桐。
その片桐がこんな事をするなんて、朝井には信じられなかった。


「嫌になったというか、最初から嫌いでしたから。良い頃合いかな、と思いましてやってみました。」

「そう。」

「それにしても、赤星さんがこんな酷い姿になるとは思いませんでした。それだけが僕の誤算です。」


片桐は、他は結構上手くいったんですけどね、と嬉しそうに言う。
朝井はそんな片桐の顔を見ず、窓の中で流れる景色をぼんやりと見ていた。


「お嬢様。」

「何?」

「これで、僕の役目は終えました。もう、自由になっていいですよね。」



―――役目。



そうか。そう言えば、そんな約束を片桐とした。
ふと、思い出した記憶に朝井は笑い出しそうになる。



可笑しくて。

悲しくて。


「ええ、そうね。好きにしたらええわ。」

「ありがとうございます。」


朝井に許可を出され、ますます顔が綻ぶ。


「ねえ。」

「はい?」

「どこへ行くの?」

「とりあえず、母親の所へ行こうかと思います。母も心配してるでしょうし。」

「そう。気を付けてね。」


病院の駐車場に車を止め、後部座席の赤星を降ろす。
後は自分一人でやるから、と朝井に言われ片桐は車に戻った。


「じゃあね。ありがとう。」

「いいえ。こちらこそ、」


窓を開け、朝井に最後の挨拶をした。
車を出して、駐車場を出る。
バックミラー見ると、赤星の肩に手を回す朝井の姿が小さく見える。
















「ありがとうございました。――――――――――――ご主人様。」
















ポツリと呟いた言葉は、空気の中に溶けて消えた。