―――あの日、母さんはヤクザに撃たれて死んだ。



僕は、独りになった。








朝井小夜子+片桐光雄編










15年前のあの日。

僕の母親は、ヤクザの撃った流れ弾に当たり息を引き取りました。
母は看護師で、病院が終わっていつも通り帰宅する途中だったそうです。
霊安室で見た母の顔は、ただ寝ているだけにしか思えず今にも起き出しそうでした。
いつも見ている母の寝顔と、全く変わりません。
死んでいるのが、信じられませんでした。
母一人子一人でしたので、所謂天涯孤独となった僕は何とか母の残した保険金とバイト代だけで生きています。
学校生活もあと少しですから、何とかなるでしょう。
ただ、心臓の辺りが何とも寂しいのです。
孤独感というものに似ていますが、少し違うそれが何とも気持ち悪いんです。

母を撃った人は、真壁組の組員だという事を新聞で知りました。
何故、警察が知らせてくれなかったのか疑問ですが、おそらく僕がまだ子供だからでしょう。
高校生になったのですから、それぐらいの事は伝えて欲しかったと思わずにはいられません。
真壁組という組の名前を、この時初めて知りました。
関西に引っ越して来てから結構経ちますが、組の名前は某組と火村組くらいしか知りませんでした。
友人に必死に頼んだら、真壁組の事務所と組長の家を教えてくれました。
危ない真似をするなよ、と釘を刺されましたがそんな事守れるはずもなく、曖昧に誤魔化してしまいました。








母が死んで、丁度2週間が過ぎた頃でしょうか。
僕は、友人に聞いた組長の家の前に立っていました。
いえ、けして家に乗り込もうとしたのではありません。
ただそっちに用があってそのついでに見てやろうという、一種の好奇心からの行動だったのです。
ですが、母の命を奪っておいてこんなに大きな家に悠々と住んでいるかと思うと、腹が立つのも仕方ない事です。
僕は、そこまで人の良い人間ではありませんし、何より母が好きだったので真壁組が憎いと思うのです。


「何か用?」

「貴女は、ここの人?」


気が付くと僕は、玄関前で睨んでいました。
怪しい奴だと、思われたのでしょう。
僕より幾分か年上の女性に声を掛けられました。


「一応ね。それで?それがどうしたの?」

「いえ、別に。何でもありません。失礼しました。」


この家の人という事は、彼女も真壁組と繋がりがある人間です。
僕は、自分の正体を悟られぬ様に逃げようとしました。
だって、僕は真壁組に母親を殺されたのです。
家の前に立っていたら、復讐をしに来たと思われてしまいます。

たとえ、僕にそのつもりがなくても。


「待って。」

「何ですか?」


しかし、僕はその女性に止められてしまいました。
振り切って逃げても良かったのですが、何故でしょう。
彼女の声に従わなくてはならない気がしたのです。


「上がっていったら?」

「えっ?」

「誰かに用があって来たんでしょう。」


にっこりと笑うその女性は、とても愛嬌があって美しかったです。
僕は、小さく頷き彼女に勧められるまま家の中へ入ってしまいました。


「それで?」

「いや、その、」


居間に案内され彼女にお茶とお菓子を出された僕は、何とかその場を凌ごうと言い訳を考えました。
たとえば、僕は建築関係の勉強をしていて立派な家だったので見とれていました、とか
庭いじりが好きで、こちらの庭を拝見したくて見ていました、とか色々考えましたがどれも玄関を睨んでいた理由にはなりえませんでした。
僕がまごついていると、中年の男性が居間の方へ顔を出しました。


「おお、帰ってたのか。」


おそらく彼女の親類の方なのでしょう。
優しそうで、彼女と親しげな印象を受けました。


「いやあ、日下部のお陰で偉い目に遭った。倉庫と店を一つ取られてしまったよ。」

「そう。大変だったわね。」


彼の言っている事は全く分かりませんでしたが、内輪の話だと思って気に留めていませんでした。
彼女は、先程と違ってにこりともしません。
ですが、年頃の女性は父親が嫌いになると言いますから、彼女もそれだと思いました。


「お客さんかい?」

「ええ、私の友達。」

「そうか。ゆっくりして行ってくれ。」


どうやら、僕は彼女の友達になってしまったようです。
彼は、それだけ言うとどこかへ行ってしまいました。


「今のは・・・」

「真壁組の組長。ちなみに、日下部っていうのは、貴方のお母様を殺した男の名前。」


真壁組の組長の家にいるのですから、中年の男性も組関係の方だと思っていましたが、まさか彼が組長本人だったなんて。
それに、彼女は僕の正体を知っていました。
嗚呼、もう僕はこれからどうなるのでしょう。
組長の娘―僕の想像では―に捕まり、これから組長に引き渡されてしまうのでしょうか。


「吃驚しなくても良いわ。新聞で見た顔写真とそっくりやったから、そうかなと思っただけ。」


彼女は、クスッと愛らしい顔で笑いました。


「倉庫と店というのは?」

「非合法の物が沢山入った倉庫と、いかがわしいお店の事。警察も検挙率しか考えてないから。」


つまり、その倉庫と経営している店を手放しす事を条件に、母を殺した男が釈放されたというのです。
僕は、彼女の顔が見れず俯いてしまいました。


「そんな事で、裁判を免れると思ってるんですか。」

「きっと、身代わりを立てたんやね。首を切っても良いような人間でも、調達したんでしょう。」


僕の頭上で溜息が聞こえました。
きっと、彼女にとっても不本意なのでしょう。


「それが、まかり通るんですか?」

「悲しい事にね。」


彼女は、冷たくなった僕のお茶を取り換えてくれました。


「日下部は、真壁組の幹部だからまだ役目があるんよ。使える駒は使わんとね。」

「貴女は、どうしてそんな事を僕に言うんですか?僕が誰かにそれを言う可能性を考えないんですか?」

「貴方は利口そうだから。そんな事しないでしょう?」


僕が頭を上げると、目の前に彼女の泣きそうな顔が見えました。


「それに、誰かに知って欲しかった。こんなゴミみたいな世界もあるって事、覚えておいてね。」


彼女の言葉は、僕の胸に突き刺さりました。
とても痛くて痛くて、たまらない。



それは、母をこんな連中に殺されたからでしょうか。

それとも、この女性がゴミの世界から抜け出す事を諦めているからでしょうか。



まだ幼い僕には、それが分かりません。



「役目って、言いましたよね?」

「うん。」

「僕の母さんにも、立派な役目があったんです。人の生命を救うって役目が。」

「そうやね。」


看護師だった母はとても奇麗で、我が母ながら白衣の天使というのは母の事だと思っていました。
それくらい、僕にとって自慢の母だったのです。


「僕にも、役目がありました。母さんを支えるって役目が。小さい事だけど、それが僕の誇りだったんです。」


母に褒められ、母に喜んで貰う事が生き甲斐だったと言っても、大袈裟ではありません。
一人しかいない家族ですから、それだけ思いが強かったのです。


「でも、母さんは死んだ。殺した人も罪には問われない。」


それは、あまりに残酷で知りたくなかった真実。
僕がここに来なければ、きっと知らずに済んだのです。
そう思うと、少し後悔してしまいます。


「僕は、これから何を役目にしていけば良いんですか?」


目から涙が滲む。
それを手の甲で拭っても拭っても、涙は一向に止まらない。
初対面の彼女に何て無様な姿を見せているのでしょう。
恥ずかしくて、穴があったら入りたいと心底思いました。


「なら私の為に、この組を潰してくれる?」

「何を言ってるんですか?貴女は、ここの人間でしょう?」


彼女の大胆な発言に、思わず涙も引っ込みました。
キョトンとしている僕の顔が可笑しかったのでしょう。
小さく声を出して笑い出しました。


「冗談よ。ほら、早く家に帰りなさい。」


彼女に見送られ家の外へ出ると、僕とすれ違いで大柄な男性とそれと頭一個分小さな男性が歩いて来ました。


「迷惑掛けたな。」

「何言ってるんですか。日下部さんの為なら当然っすよ。」


嗚呼、おそらく大柄な方が僕の母を殺した人なのでしょう。
ですが、僕は彼を見ても何も感じませんでした。
いや、憎しみや怒りを抱いても仕方ないと悟ったのです。
それに、僕にはやらなくてはいけない役目が出来ました。
母を奪い、彼女がゴミだと蔑むこの組を壊さなくてはいけないのです。









これが、僕の新しい役目です。
















赤星のマンション前で車を降りた片桐は、自分の通帳と印鑑を赤星のポストへ入れた。
中には、片桐が今まで貯めた金が入っている。
真壁の右腕である彼の事だから、相当な額が入っているに違いない。


「よし、これで良いか。」


独り言を呟くと、そのままマンションから去り車に乗った。
目指すは、母親が好きだった広くて深い海。


「僕もそろそろフリーになろうかな。」


何時だったかか部下にこう言ったな、と一人で笑う。
ダッシュボードには、片桐の愛銃。








海を見ながら、此岸と別れるのも悪くない。