―――いい加減に離してくれ。





何処にもいない君を想って、胸を痛める日々を終わりにしたいんだ。

僕からは“サヨナラ”と言えないから、黙ってその繋いだ手を離して、僕の知らない何処か遠くの場所へ走り去ってよ。






04 いい加減に離してくれ・2






鮫山が彼を事情聴取している間、火村と船曳は隣の部屋にいた。
よく、刑事ドラマや映画で見る隠し部屋だ。
マジックミラーが壁に備え付けてあり、隣の様子がよく分かる。
先程までミラー越しに彼をジッと見ていた―睨み付けていた、と言った方が正しい―火村は、隣にいた船曳に話し掛けた。


「警部、彼に会ってもいいでしょうか?」


突然の事に吃驚した船曳は、目を丸くした。


「彼って・・・。」


火村は黙って彼を指さした。
指をさされた彼は、ただ自分の腕に掛けられた手錠を見つめていた。

船曳の顔が強張った。

「危険です、火村先生。」
「ここは天下の大阪府警ですよ。何が危険なんですか?」

火村は微笑した。



「貴方が、ですよ。」



「私が彼に掴み掛かると?」
信じられないと言う様に、火村は船曳を凝視した。
「正直に言えば、それ以上の事をすると思っています。」
船曳は至極真面目な顔をする。

「そんな馬鹿な事はしません。・・・もしそんな事したら、現行犯で逮捕して下さい。」
船曳に向かって、穏やかに笑う火村。

しかし、船曳は火村の目が笑ってない事に気付いていた。
「・・・分かりました。」


アリスを殺し、尚且つそれをあたかもアリスが望んだかの様に供述する彼。
それをどうして、火村が憎まずにいようか。
むしろ、怒りと憎悪が身体中を駆け巡り、今にも爆発しそうな状態かもしれない。


船曳はそれを分かりつつも、火村をただ見送るしか出来なかった。






金属のドアをノックする音。
鮫山が返事をすると、火村がドアを開けた。
「失礼します。」
彼は、取調室に入って来た火村を奇妙な物を見る様に不信がった。
「・・・。」
「はじめまして。英都大学社会学部教授の火村です。」
まるで営業マンの様な―というと誤解を生みそうだが―上辺だけの笑顔を作った。
「―――です。有栖の親友・・・ですよね?有栖がお世話になりました。」
知っている人だと安心したのか、彼も微笑を浮かべた。


いかにも、アリスを自分の所有物の様に扱う態度。


しかしそれにはリアクションがなく、火村は上辺だけの笑顔を保ち続けている。
二人のやりとりを見ている鮫山の方が、居心地悪そうにしている。
「こちらこそ。出来れば、こういう場所でお会いしたくなかったですね。」
そう言って火村は、彼と鮫山の間に座った。
「ええ。」






「不躾ですがアリスは・・・貴方といて、貴方と愛し合って、貴方に殺されて、幸せでしたか?」


いきなり、何を聞き出すのだろう。
彼はもちろん、鮫山も目を丸くしている。
「どういう意味です?」
彼は火村をジロリと睨んだ。


「文字通りの意味です。“幸せでしたか”?」


火村は、ジャケットから取り出したキャメルに火を点けて、一服する。
「・・・だと、思っています。愛し合った者に殺される事は“最上の喜び”でしょう?」
口元を上げ、嬉しそうに語る彼。

「貴方は“最上の喜び”をアリスに与えたと?」
「ええ。当然です。」
彼は、自信満々に答えた。

火村は、まだ半分以上残っている煙草をもみ消すと、椅子から立ち上がった。
「そうですか。なら、部外者の私がとやかく言う必要も義務もありませんね。お邪魔しました。」
「・・・よろしいんですか?」
「何故?」
「貴方に殴られると思ってました。」
火村を見つめる彼。
火村は彼を何事もなかった様に、素通りした。



「貴方を殴り殺したって、アリスは帰って来ません。」


「・・・。」
「それじゃ。」

鮫山は、火村にしてはドアを閉める音が心無しか荒い気がした。





廊下に出ると、船曳が待っていた。
「・・・よろしいんですか?」


「彼が殺したのは有栖です。私の知ってるアリスじゃない。ただ肉体は正真正銘、有栖川有栖ですがね。」


「はあ?」
船曳はまた眉をひそめた。
火村は、続けて説明した。
「彼は自分の妄想した、処女の様に清らかで従順なアリスと出会い、愛を育み、そして殺した。彼の“頭の中の有栖”に頼まれてね。つまり、彼は自分の妄想に飲み込まれ、現実との境が分からなくなったんですよ。全ては、彼の妄想が生み出した幻想です。」


―――エロトマニア。別名恋愛妄想。
彼の症状は、それに酷似している。



「幻想ね・・・。」
「でも彼にとって、それが真実です。」
火村はまた、キャメルに火を点けた。


「火村先生は、随分と冷静なんですね。」
「冷静でなければ、フィールドワークは出来ません。」
「私は、もっと貴方が取り乱すと思ってました。しかし今の貴方は、有栖川さんが存命の頃と変わらない。怖い人だ。」
火村はくわえていた煙草を手に持った。



「・・・駄目なんですよ。」




あの火村英生とは思えない位の、か細くて弱々しい声。
長い付き合いになる船曳が、今まで一度も聞いた事のない弱音。

もしかしたら、今まで誰も聞いた事がないかも知れない。



―――火村の弱さは全てアリスが包んでいたから。



船曳がそれに気付いた時、同時にアリスの偉大さを改めて知ったのだった。



「アリスがいないと、何も出来ない。」
「・・・まるで子供ですね。」
「子供だって、母親がいなくなれば自分の位置を知らせる為に、泣き叫びますよ。私は子供以下です。」
火村は再び煙草をくわえた。
「親離れする気はないんですか?」
船曳がそう言うと、火村は苦笑した。 「いい加減に離れる時期なんですけどね。親の方が愛想尽かして、離れていきました。」

悲しそうな瞳をした火村は、そのまま大阪府警を去っていった。








「離れられたら、どんなに楽だろうな。なぁ、アリス?」
答える者は誰も居らず、煙草の紫煙だけがゆらゆらと蠢いていた。





―――いい加減に離してくれ。





何処にもいない君を想って、胸を痛める日々を終わりにしたいんだ。

僕からは“サヨナラ”と言えないから、黙ってその繋いだ手を離して、僕の知らない何処か遠くの場所へ走り去ってよ。