アリスは、笑わない。
泣かない。
感情を表に出さない。
喋らない。

此方が用意しないと、食事もろくにしない。
肋骨が浮き出る程痩せ細り、輝きに満ちていた目に光がない。
手首には無数の切り傷。
身体中に出来た傷と痣。

でも、アリスは机に向かって小説を書く。
黙々と、何かに取り憑かれたように。
狂ったようなその姿は、以前のアリスと変わらない所。
俺が前から知ってる有栖川有栖の姿だった。




何時、何故、誰がこんな風にしたのか分からないが、俺が米国から帰って来た時には、既にこうなっていた。




アリスが傷付いていたのに、それに気付かずのうのうと米国にいた自分が恥ずかしくて、涙も出てこない。








クランベリをかじる








「アリス、飯にしよう。」


書斎に籠っていたアリスに、声をかける。
アリスは、此方を向いて頷いた。
以前なら自然に零れていた笑みも、もう見る事はない。
屈託のない笑顔を振り撒いていた以前のアリスを思い出し、胸が痛くなる。
先にダイニングに座った、アリスの向かいに座る。
すると、アリスが左手で机をトントン叩く。
隣に座れ、と合図するのだ。

俺は、それを見るのがたまらなく好きだ。
自分がアリスに必要とされているのが、よく分かる。


「はいはい。」


椅子を移動させ、渋々座る振りをする。
内心は、嬉しくて嬉しくて仕方ないのに。

アリスは我慢出来なかったのか、春菊のお浸しを手で摘まんで食べた。
咀嚼する音が、小さく聞こえる。


「行儀悪いな。」

苦笑する俺を他所に、またアリスはお浸しに手を伸ばす。
白い歯の隙間から、ちらりと見える赤い舌。
噛み付きたくなる衝動を抑えて、アリスの手に箸を握らせた。








アリスの笑顔が無くなって悲しい。

アリスの声が聞こえなくて辛い。


でも、アリスの世界の中に俺しかいないと思うと誇らしい。


性格が悪い、と自分でも思う。
アリスの為と言いながら、結局自分の下心の為に世話している。
早く、アリスの元から離れた方が良いのは、重々承知だ。

それでも、俺はアリスの側にいたい。
何て、エゴイズム。

















ママレードを掬う


火村は講義が終わると直ぐに、アリスのマンションへと向かう。
本当は、同じ家に住んだ方が経済的にも距離的にも楽なのだが、まだめぼしい物件に出会えていない。
収入もそれなりにあるのだから、選り好みしなければ直ぐに部屋でも家でも見付かるだろう。
だが、アリスの事を考えると条件が増えていくのも、仕方ない事だった。


「ただいま。」


鍵を開け、声を張り上げる。
いつもなら、アリスがそろそろと玄関まで迎えに来てくれる。
顔は相変わらず無表情だが、来てくれるだけで火村は嬉しかった。
しかし、今日は珍しく現れない。
少し寂しい気分になりながら、火村は部屋に上がる。
小説を書いているのか、はたまた寝ているのか。
緩んだネクタイを外しながら廊下を歩き、ドアを開ける。

火村の目に飛び込んだのは、乱暴に散らかったリビングだった。
カーテンは外れ、テーブルが横に倒れている。
電話はかろうじて電話線が繋がっている状態で、棚の上に飾っていた観葉植物の鉢は見事に真っ二つだ。
まるで強盗に会ったかのような、部屋の散らかりように火村の背筋が凍る。



――アリスは無事なのだろうか。



火村は、急いで書斎のドアを開けた。
アリスの気配すらなく、火村はますます焦る。
寝室、台所、風呂場、ベランダ、クローゼット。
探さなくてもいいようなゴミ箱の中も覗いたが、やはりいない。


「アリス。アリス!どこだ、アリス!!」


声をいくら荒げても、返事はなかった。


「くそっ。」


火村は、一人悪態を付く。
ああなってから、アリスは一切マンションから出ようとはしなかった。
だから、安心だと思って大学に行ったのに。
今度こそ、アリスを守ると誓ったのにこの様は何だ。
自分が情けなくて、腹が立つ。

すると、かたり、とどこからか物音が聞こえた。
玄関の方だ。
強い音を立て、玄関に向かって走る。

また、かたり、と物音が聞こえる。
トイレだ。
案の定、トイレには鍵がかかっている。
きっと、この中にアリスはいる。


「アリス?おい、アリス!」


ガチャガチャと、ドアノブを回す。
ドアノブをいくら回しても、鍵がかかっているのだから開くわけがない。


「俺だ、アリス。良い子だから、ここを開けてくれないか。」


出来るだけ、優しい声でドアの向こうに話しかける。
しかし、反応がない。


「アリス、お願いだ。開けてくれ。」


やはり、反応がない。
アリスがああなってから、初めての奇行にどうしたら良いのか火村には分からなかった。
今日は食事だけ用意して、帰った方が良いかもしれない。
アリスを落ち着かせようと、トイレのドアノブから手を離す。


「アリス。…分かった。食事の支度が終わったら、直ぐに帰るよ。アリスの邪魔はしない。また来るからな。」


そう言って、ドアの前から去ろうとしたら、突然ドアが開いた。
そこから、アリスが飛び出して火村のジャケットの裾を掴む。


「アリス?」


俯くアリスの顔を上げようと頬に触るが、するりとアリスにかわされる。


「どうした?」


物言わないアリスの頭に、掌を乗せる。
すると、アリスの顔が少しだけ―ずっと世話してきた火村にしか分からない位だが―綻ぶ。
世話をしてきてから、初めて見せる表情に心踊らせる。


「寂しかった?」


そう言うと、アリスは小さく頷いた。


「そうか。ごめんな。」


頭から頬に滑らせた火村の掌に、アリスは手を重ねる。

今日見せたアリスの笑顔。
まだまだ、元の様な笑顔じゃないけれど。
大丈夫。アリスは、また花の様に笑ってくれる。






少しずつ溶けてく心の氷に喜びつつ、どこか不安だった。
アリスが元通りになったら、何処か遠くへ行ってしまいそうで。
















青色5号を飲み込む


アリスが心を閉ざしてから、一年経った。

やっと、二人でのんびり過ごせる家を郊外に借り、火村は相変わらずアリスの世話をしながら教壇に立っている。
変わった事といえば、フィールドワークの度、アリスが来ない事に対して森下が寂しがっている事くらいだ。
フィールドワークに行く度に、そんな事を言われているので、もう誤魔化すのも慣れた。

新しい家に引っ越してから、アリスにはお気に入りの場所がある。
引っ越し祝いに、朝井さんがくれた一人掛けの黒いソファ。
アリスは、それに火村を座らせその膝の上に座るのを好んだ。
窓際の陽の当たる場所に置いているものだから、全身に日差しが降り注いで心地良い。
今日も、アリスは火村の膝を占領している。
火村は、膝の上のアリスの髪を優しく指でとかしていた。

穏やかで静かな時間。
動くのは、火村の指先と心音だけ。
傷付いたアリスが、このまま癒えてくれればと強く願う。
だが、完全に癒えたアリスはこの生活をどう思うのだろう?



このまま、ずっと一緒にいてくれるのか。
それとも、火村を疎ましく思いここから出ていくのだろうか。



今噛み締める幸せと、未来への不安が入り交じる心。





ただ嬉しくて、

ただ苦しくて、





どうせなら、一生このまま二人で過ごしたい、と夢を見て、

どうせ、いつかいなくなるなら早くアリスが目覚めて去れば良いと、嘆く。



膝の上に座るアリスは、火村の心中など知らずただ猫のように丸まり、夢を見る。
















粉サイダーを舐める


今日も、アリスは机の前に座って執筆している。
静かな部屋の中で、キーを打つ音だけが響く。
アリスにとって、「書く」という事は呼吸するのと同じ事なのだろう。
ただ黙々とキーを打つ姿はとても自然で、以前のアリスと何ら変わらない。


「アリス、そろそろ休憩しよう。」


火村の声を聞いていないのか、アリスはキーを打つスピードを緩めない。
火村は、嬉しそうに溜息を吐く。
まるで、今のアリスが普通のアリスに戻ったかのような、偽りの幸福感が胸を満たす。
両手に持っていたトレイを置いて、アリスに近付いた。


「疲れただろ。少し休もう。」


肩に手を置くと、やっと気付いたアリスが振り返る。


「朝から書きっぱなしだから、疲れただろ。」


そう火村が言うと、首を横に振ってまた空想の世界に身を投げる。
機械にアリスを取られた火村は、トレイの上の珈琲を机の端に置いた。
机の上に陶器を乗せる音が、小さく鳴る。


「ここに置くからな。溢すなよ。」


アリスから、返事はない。
その代わりすぐにアリスの手が伸び、珈琲入りのマグカップは、アリスの手中にあった。
その様子を見て、自然と笑みが零れる火村。

書斎のドアをそっと閉めて、リビングのソファに座る。
ソファに降る日差しがあまりに強くて、思わず目を細めた。
冬の晴れた日はジリジリと暑くて、困る。
影が出来ている方へ避難して、テーブルの上の雑誌に手をやった。
昨日、自分が起きっ放しにしていた専門誌だ。
読みたい記事は昨夜に一通り読んだが、他に何もする事がなくて適当にページを開く。
開いたページに写る、微笑を浮かべた中年男性の顔。
下に明記された経歴はご立派だが、火村は見た事も聞いた事もない人物だった。
貼り付けた様な嘘くさい笑顔が、よく似合っている。

何となく彼のコラムを見ていたら、自然と瞼が重くなってきた。
上辺だけの笑顔も、実のないコラムもぼやけて見える。
室内の暖かさも相まって、火村はそのまま静かに目を閉じた。
















どれくらい経ったのだろう。
右肩に重さを感じた火村は、目を覚ました。
見ると、アリスが火村の肩に頭を置いて隣で寝ている。
二人の膝には、ブランケットがかけられていた。
アリスの顔半分に、日が差して暑そうだ。

火村は、アリスを抱き寄せて日陰に移した。
アリスは、それでもまだ夢の中にいる。
火村は、子供をあやす母親の様にアリスの体を優しく叩いた。
周りがしんとする中、アリスの呼吸音が大きく聞こえる。



火村は何だかそれが可笑しくて、アリスを起こさない様に声を立てずに笑った。