理解不能な脳味噌




1週間も大学に出ていないと流石に篠宮夫人に心配を掛けると思った火村は、適当に目の前にあった教科書を鞄に詰め込みまだ散らかしっぱなしの自室のドアを開けた。
玄関を見ると、篠宮夫人が腰を曲げ箒で掃除している。


「婆ちゃん、いってきます。」
「いってらっしゃい。」


篠宮夫人は、いつも通りの挨拶を返してくれた。
これは、おそらく自分が篠宮夫人に対して自然に会話出来ていたと思って良いのだろう。
その行為は、まるでこの人を騙しているかのように思えた。
強姦魔が大家と普通に喋っていると思うと、少しの罪悪感とこの状況の可笑しさが湧き上がる。
ガラリと開けた玄関のドアの音が、妙に懐かしく聞こえた。


「さて・・・。」


火村は、秋の少し冷たい風を肺に目一杯吸い込むと、大学とは正反対の道を進んだ。











「なあ、有栖川。火村は?」


講義が終わり教室を移動しようとすると、共通の友人がアリスに素朴な疑問を投げかけた。
長い期間会っていないのだから、こう思うのは当然の事である。
だが火村がいない間、友人からも、教授からも、挙げ句の果てには面識のない女の子からも同じ質問を受けていたアリスはウンザリしていた。
しかも、その原因は多分自分なのだろうから―本当は自分が休みたいくらいだ―ストレスもかなり溜まる。


「知らん。その内来るやろ。」
「その内って・・・。俺ここ最近、火村見かけんぞ。お前もやろ。」




「・・・まあな。」


むしろ、会わない方が好都合だ。
そう言い返せるわけもなく、一応同意しておく。


「なあ、1回火村の家行こう。」
「何で?」


嗚呼、この友人は何て事を言うのだ。
被害者が加害者の家にノコノコ行けるわけがないだろう。


「何でって・・・お前心配やないんか?もしかしたら、病気になって倒れてるかも知れんで。」
「火村は下宿に住んでるんやから、そんときは誰かが見付けてくれてるよ。」


そう言って、席を立とうとすると友人は後ろからアリスをギュッと抱きしめた。
友人は洒落のつもりでやったのだろうが、今のアリスはそれに嫌悪感しか見いだせない。






まだ、人肌が怖くて仕方ない。






「あ〜り〜す〜が〜わ〜。お前、そんな冷たい奴やったん?お前、火村の親友やろ?」
「うわっ、くっつくな。行くんだったら、一人で行ったらええやんか。」


鳥肌を立たせながら、引っ付いてきた友人を無理矢理剥がす。
友人は口を尖らせながら言った。


「俺、火村ん家知らんもん。」
「同じ下宿の奴に聞けよ。」
「同じ下宿の奴が分からん。」
「だったら、地図書いてやるから一人で行け。俺は行きたくない。」

「何でそんなに火村ん家に行きたくないんや。・・・あっ、お前ひょっとして」












「火村と喧嘩でもしたんか?」
「・・・違うわ。」


一瞬ドキリとしたが、的外れな回答だったので安堵した。
でもまあ、火村に犯されそうになったと本人同士以外分かる筈もないだろうが。






「んじゃ、行こうや。どうせバイトもないんやろ?」






誘いを断ろうとしていた。
当たり前だろう?
誰が行くものか。

友人に「悪い。今日は用事がある。」とでも言えば良かったのだ。



それなのに、

それなのに、

それなのに、








「ああ、ええよ。」








無意識に出たのは、自分の意志とは真逆の言葉だった。








―――なんて理解不能な脳味噌。