猫のアリスと人間の火村さん








アリスが野良猫になったのは、今から2週間前の事だった。

前の飼い主にどんな事情があるのかは知らないが、分かる事は1つ。
自分は、捨てられた身であるということ。

飼い猫だったアリスは、室内で育てられたので、餌の捕り方を知らない。
どこに残飯があるのかを知らない。
野良猫に餌をやる気紛れな人が、どこにいるのかを知らない。

行く宛てもなく、フラフラとさ迷うアリス。
空腹で、足元がおぼつかない。


「おい、何してるんだ?」


声の方を見上げると、人間の男が立っていた。
初めて見た顔なのに、何だか懐かしい。
男はアリスを抱き抱えると、首の辺りの毛をかき分けた。
煙草の匂いが、アリスの鼻をくすぐる。


「首輪はないな。野良猫か?」

同意の言葉の代わりに、アリスは一鳴きする。
何故だろう。
この男を、すっかり信用してしまう。
本当なら、警戒する相手でもおかしくないのに。
男は目を見開いたが、直ぐに口元を歪ませた。


「ウチに来るか?」


それは、アリスにとって救いの言葉だった。
餌を調達する能力がないアリスは、これで餌が食べられる、と喜び尻尾を振る。
そして、先程より大きな声で鳴いた。
喜びを表した様なアリスの声に、男が喉の奥で笑った。


「じゃあ、行くか。」


男が歩き出す。
アリスはその揺れと男の人肌に安心して、腕の中でウトウトし始めた。
それに気付いた男が、アリスの背中をゆっくりと撫でる。

こんなに深く眠れるのは、久しぶりだ。
暖かくて、心地好い眠り。
なんだか、このまま溶けてしまえそうだ。








「ただいま。」


男の声で、アリスは目覚めた。
どうやら、ここが男の家らしい。
けして新しいとは言えないが、手入れの行き届いている綺麗な家だった。
男は、一階にいる年配の女性に声をかけた。
この時は男の祖母だと思っていたのだが、後々になってこの家の大家だという事が分かった。
二階に上がり、男の部屋に着く。
中には、既に3匹の先客がいた。


「ほら、仲良くしろよ。」


男は、アリスをゆっくりと降ろす。
先客達はアリスに興味深々ったが、声をかけて来ない。
先客に警戒されているのは分かっていたので、視線が痛い。


「飯喰ったら、風呂に入れてやるからな。」


そう言って撫でて貰った手が、暖かくて気持ちよかった。
主人が触れて何もなかったのを見た先客達も、アリスが怖くない猫だと分かり、話かけてきた。
3匹の猫はそれぞれモモ、ウリ、コオといい、アリスの境遇を根掘り葉掘り聞いた。
アリスは、別にそれを不快だと思わずに、答えられるものは大体答えた。
しばらくすると、誰かが階段を上がる音が聞こえた。


「はい、どうぞ。可愛い猫ちゃん。」


一階にいた年配の女性だった。
彼女の持ってきた銀のプレートの中には、キャットフードが目一杯入っていた。
お礼を言うように鳴くと、彼女は小さく声を出して笑う。
すぐに、男も階段を登って現れた。
3匹との会話に夢中で気付かなかった。
一体、いつ降りていったのだろう?


「火村さん、名前どうしましょうね。」

「そうだな。お前は何が良い?」


猫にそんな事を言われても、どうしようもない。
前はアリスという名前があったが、それを男に伝える手段はない。
それに、アリスという名前にも未練はない。

何でもいい、と答える代わりに、にゃんと鳴く。
アリスという名の猫が死ぬ前の、最後の鳴き声だった。