「痛っ。」


火村が小さく声を出した。
顔を顰める彼の視線の先をよく見れば、親指の腹が一文字に切れている。
読んでいた学術書のページで切れたようだ。


「うわあ。痛そうやな。」


確かに痛そうだけど、見事に奇麗な紅い線。
火村を覗き込んだアリスは、それを今すぐ舐め取りたい欲に駆られた。


舐めて、咥えて、しゃぶって。

鉄の味がなくなるまで。

ずっとずっと舐め続けてその指が唾液で濡れて、指の腹の皮がふやけてしまえばいい。
アリスには、その見事な紅が魅力的で仕方なかった。
思わず、生唾を飲む。


「痛えよ。」


しかし、その指は火村の口の中へ入ってしまった。
名残惜しそうに火村の口元を見ると、ふと火村と眼が合う。


「何だ?」

「別に。」


不自然に、目を逸らすアリス。
怪訝な顔をする火村に、口元だけで笑む。


「天罰やな。」

「五月蠅えよ。」


軽口を叩くと、火村が頭を小突く。
その一瞬の手の温もりが心地よくて、ほんの少しだけ興奮した。

自分でも呆れてしまう。
いつの間に、こんなに火村が好きになったのだろう。

嬉しくて、誇らしくて、惨めで、汚い。
そんな感情が自分の中で入り混じるのが、とても辛い。
長年連れ添った親友が、こんな変態染みた想いを募らせているだなんて。
あの自分にも、他人にも厳しい男が知ったらどうなるのだろう。


「お茶淹れてくる。」


居た堪れなくなり、立ち上がるアリス。
空の二人分のカップを両手に持って、後ろの台所へと急ぐ。

後ろを向けば、火村の顔は見えない。
アリスは、唇を噛み締める。
血が出るほど、強く。強く。
痛みで、何もかも忘れられるくらいに。
血が出る方がマシだ。
何とでも言い訳ができる。


それよりも、両眼から流れそうなこの液体を止めて欲しい。


どうか。

どうか。

我が最愛の友人に、この純粋で浅ましい想いが伝わらないように。








あぁなんて








「痛っ。」


火村が小さく声を出した。
顔を顰める彼の視線の先をよく見れば、親指の腹が一文字に切れている。
読んでいた学術書あぁなんて紅いのページで切れたようだ。


「うわあ。痛そうやな。」


火村の指を見て、顔を顰めるアリス。


「痛えよ。」


火村は、その指を口の中に含む。
舌で切り口をなぞると、指と舌の両方に感触が伝わる。
もし、これがアリスの舌ならばどんなに甘美で興奮した事だろう。
アリスの唾液で濡れる自分の指が、どんなに羨ましく思える事だろう。
脳内でありもしない妄想を繰り広げていると、ふとアリスと目が合った。


「何だ?」

「別に。」


目を逸らし、微笑むアリス。
きっと、ざまあみろと心の中で笑っているに違いない。


「天罰やな。」


ほら、やっぱり。
でも、そんな可愛くない言葉もアリスの口から発せられたと思えば、何とも愛おしい。
出てくる言葉は憎たらしいのに、その存在は小悪魔の様に見える。
重症だな、と心の中で苦笑いする。


「五月蠅えよ。」


アリスが軽口を叩くので、軽く頭を小突く。
掌に伝わる髪の感触。
さらさらといつまでも触っていたい、その誘惑を胸の中に押し留める。



心地良い髪も、

滑らかな魅惑の頬も、

可愛らしい唇も、



アリスを構成する何もかもを、本能のままに触って口付けて自分のままに出来たら良いのに。
欲望が今すぐ溢れそうな自分を嫌悪しつつ、それでもアリスから離れる、という選択肢が自分にない事に嘲笑う。
なんて我が儘で、なんて自分勝手。
愛しい親友と離れる事が最上だと知りつつ、自分の欲に負けた浅ましい自分。


「お茶淹れてくる。」


立ち上がり、自分のカップと火村のカップを両手に持つアリス。
アリスが後ろを向いたので、背中しか見えない。


ここからは見えないアリスの顔。

ここからは見えない火村の顔。


きっと、否、絶対にアリスは知らない。




アリスの背をずっと見つめ、情欲に駆られた獣染みた男の事なんて。