雑居ビル地下一階「クラブ シャングリラ」隣・前




雑居ビルの地下一階、可愛い子が沢山いる事で有名な「クラブ シャングリラ」。
ここには、平日休日問わずお父さん方が引切り無しに訪れる。
まさに、男性のシャングリラになっている。
そんなシャングリラの隣に、ポツンとある「Bar detect」。
こちらは閑古鳥が鳴くギリギリの売上で、何とか保っている小さなバーだ。

俺は、ここの唯一の従業員である。
剥き出しのコンクリートの壁にモノクロの家具で揃えた店内は、常にマスターが選んだ邦楽が流れている。
今日は、マスターが好きな女性歌手のアルバムが掛かっていた。
ハスキーな歌声がお気に入りらしく、週に一回はこの曲が掛かっている気がする。
一度洋楽にしたら、と勧めたがマスター曰く、洋楽は何を言っているのか分からない。
英語が呪文に聞こえて落ち着かないから却下、だそうだ。
その割には、店の名前が「detect」と英単語なんだから笑える。
それを言ったらマスターは、ブチブチと独り言のように、英語だと無条件で格好良い感じがするから英和辞典で適当に選んだだけなんだと、告白してくれた。
全く、マスターは私を笑い殺す気なんだろうか。

そんな可愛い一面を持ったマスターはまだ出勤しておらず、店にいる従業員は俺だけだ。
俺の前のカウンター席には、三人のお客様。
一人は、常連客の朝井さん。
その隣に二人男性が座っていて、三人で何やら話し込んでいる。
どちらも以前にも来たお客様で、朝井さんの隣が有栖川さんでその隣が火村さんだ。
俺は三人にお酒を出した後、グラスを拭きながらマスターの到着を待っていた。


「何や、二人とも久しぶりやね。」

「そうですか?あんまり、朝井さんとは久しぶりという感じはしませんね。」


楽しそうな朝井さんに、笑いかけるのは有栖川さん。
イントネーションが関西っぽいから、朝井さんと同郷かその近くの出身なんだろう。


「この前も、東京で会ったからやね。でも、こうして飲むのは久々。」

「俺は、会うのも久しぶりですよ。」


そう言うのは、火村さん。
間に有栖川さんがいるので、体を前に乗り出し朝井さんに話しかける。


「先生とは、滅多に会わんからね。」

「そうですね。お互い忙しいですから。」

「その割には、アリスとは会うんやろ。」


アリスというのは、おそらく有栖川さんの事だろう。
二人の会話を聞いた有栖川さんが、朝井さんを見て何とも言えない顔になっている。


「アリスは、俺の助手ですから。」

「もう。私も火村先生の話、楽しみにしてるんやからね。」

「朝井さんのご期待に、添えられるかどうか。」


困ったように笑う火村さん。
ずっと楽しそうな朝井さんとは逆に、有栖川さんは何だか元気がない。
仕事がお忙しいのだろうか。
目の前の酒を無表情で一口飲んで、グラスを置いた。
両端の二人の話は盛り上がっているのに、真ん中の有栖川さんは二人の会話に途中相槌を打つくらいで、後は黙ったままだ。


「カンちゃん、おっす。」


カウンターに、マスターがやっと現れた。
遅刻しても罪悪感というものは彼にはなく、陽気に右手を上げて満面の笑みを浮かべている。
モノクロのバーテン服を着ていても、その雰囲気のせいかバーテンダーのコスプレをしたホストにしか見えない。
ちなみに、カンちゃんというのは俺のあだ名だ。


「遅い。今までどこに行ってたんですか?」

「えー、彼女ん家?」

「彼じゃなく?」

「今日は彼女だぜ。」


マスターは、無節操なバイだ。
一度聞いた話だと、店が終わった後に夜道をフラフラしていると、必ずナンパ(もしくは逆ナン)される。
しかも、そのナンパした人と一夜を共にして、その人の家からまた店に出勤するらしい。
自慢げに、最近お泊りし過ぎて自分の家に帰ってない、と聞いた時はその時握っていた酒瓶で、奴の頭を殴ってしまおうかと思ってしまったくらいだ。
カウンター席の三人に気付いたマスターは、ニッコリと笑みを濃くした。


「おー、朝井さんこんにちは。有栖川さんと火村さんも、いらっしゃい。」

「覚えてたんですか。」


有栖川さんが、驚いた顔でマスターを見た。
そりゃあ、見た目がちゃらんぽらんな金髪ホストのマスターが、他人の名前を覚えていたら吃驚するだろう。
すかさず、有栖川さんの手を掴み両手でねちっこく撫でるマスター。


「客商売だからね。一度来たお客さんは忘れないよ。それに、有栖川さんは可愛いし。」

「マスター、お客様を口説かないでください。」


有栖川さんが相当困った顔をしていたので、マスターの頭を拳骨で殴る。
手加減した筈なのだが意外に痛かったらしく、殴った場所を擦っていた。


「カンちゃん、冷たーい。」

「それより、さっきの何なん?今日は彼女、って。」


嫌な所に、朝井さんが喰い付いてしまった。
折角の数少ない常連さんを、マスターの性癖なんかで失いたくない。
俺は、誤魔化す為の言い訳を考える。


「あー、それは…」

「文字通りですよ。今日は彼女のお家、昨日は彼のお家。明日は…どっちだろう?」


どっちだろう?じゃない。
俺がまごついている間に、マスターはあっさりカミングアウトしてしまった。
さようなら、貴重な常連さん。
こんにちは、閑古鳥。


「随分、サラッとしたカミングアウトね。」

「朝井さんは、こういうの嫌な人?」

「そんなん気にしてたら、小説なんて書けないわ。」


どうやら、閑古鳥を迎えなくて済みそうだ。
朝井さんはウフフ、と可愛らしく笑った後、グラスの中に半分残っていたウイスキーを空にした。


「朝井さんって、小説家だったんですか?」

「そうよ。今、絶賛売り出し中のミステリ作家よ。」

「朝井さん、凄え!」

相当飲んだ朝井さんは、テンション高くこちらに向かってVサインを見せた。
素面の筈のマスターが朝井さんに負けないくらいのテンションでVサインを作り、朝井さんの人差し指と中指に自分のVサインを重ねて遊んでいる。
二人とも、楽しそうで何よりだ。


「ちなみに、アリスもミステリ作家。火村センセは、准教授。」

「じゃあ、皆さん『先生』なんだ。」


先生って身分だけで、何だかこの三人が偉い人達なんじゃないかと思えてきた。
多分、俺が小説なんて高尚な物を読まず、学生時代ありとあらゆる教師に迷惑を掛けて来た人間だからだろう。


「一応、ですけど。」

「凄えな。俺、マスターとしか呼ばれてないや。カンちゃん、今度から俺を先生と呼んでくれ。」


謙遜する有栖川さんとは対照的に、マスターは図々しくも俺に先生呼びを強要してきた。
ああ、貴方が俺の雇い主じゃなかったら、手に持っているグラスで貴方の頭部を強打していたのに。


「絶対に嫌です。」


俺がそう言うと、何が面白かったのか朝井さんと有栖川さんが控え目に笑った。
それを見た火村さんの顔が一瞬険しかったのは、俺の見間違えだろう。


「カンちゃん、トイレ掃除しといて。」

「今日は、マスターが当番でしょ。」

「おーねーがーいー。」

「はいはい。」


朝井さんと話がまだ盛り上がっているマスターは、俺に便所掃除を半ば強引に押し付けた。
そう言えば、さっきから有栖川さんと火村さんの姿が見えない。
二人で仲良く便所か、朝井さんを出し抜いて隣に行ったか。
……まあ、あの二人なら後者はないな。おそらく。
便所傍の用具入れを開けたら、二人の声が便所の中から聞こえる。
店内に流れる音楽はここまで届いておらず、便所内の会話が聞きたくなくても丸聞こえだ。
俺が、用具入れの奥の方に仕舞われた便器用ブラシを救出するのに戸惑っていたせいで、二人の会話が進む。


「久し振りだな、アリス。」

「……そうやね。」

「朝井さんの誘いには、乗るんだな。」

「当たり前やろ。先輩なんだから。」

「何で、電話に出なかった。」

「忙しかったから。それだけや。」

「ラブホテルに男と行く時間はあって、俺と会う時間はないのか。」


今、聞いてはいけない事を聞いてしまった気がする。
有栖川さんが、男とラブホ?まさか、そんな。
多分、火村さんの勘違いだろ。見間違えだろ。誰か、そうだと言ってくれ。


「……見てたんか。」


有栖川さんが肯定してしまった。
どうしよう。えらい事を聞いてしまった。
それもこれも、便器ブラシがあんな奥に入ってるのが悪い。
誰だ、昨日の掃除当番は。
今日は、本来はマスターの番だったから俺か。
俺のせいなのか。いや違う。マスターが、俺に当番を代わらせたのが原因だ。
ということは、マスターが悪い。全面的に悪い。


「一体どうしたんだ、アリス。最近おかしいぞ。」

「おかしくはないやろ。君とヤるのも飽きたから、他の男を探してただけ。」

「何で……。」


絶句する火村さん。
有栖川さんはさっきまでの優しい口調が一転して、冷たく火村さんを突き放すように言葉を吐き出す。


「別にええやろ。どうせ、君も溜まった性欲処理の為に、俺を呼びたかっただけやろ。」

「そんな、俺は…。」

「話はそれだけ?俺、もう戻るな。」


言葉を上手く紡げない火村さん。
便所のドアが開き、有栖川さんが出て行く。
上手く用具入れがドアの影になっていたので、多分俺の姿は見えない…筈。
便所掃除を諦め、店に戻ろうとすると何かを叩く大きい音が聞こえた。
振り返ると、ドアの隙間から火村さんがトイレの壁を叩いているのが見える。


「クソッ。どうして分かってくれない。」


絞り出す掠れた声。
もう一度壁を大きく叩くと、疲れた様に呟く。






「こんなに……、こんなに愛してるのに。」






火村さんが出て行った後、店に戻った俺はまだ朝井さんと盛り上がっているマスターの脛を、思い切り蹴った。


「痛っ。」

「マスターが悪い。」


さっきの会話を聞いてしまった気まずさと、その原因を作ったマスターに対する八つ当たりだ。
突然蹴られたマスターは、不思議そうな顔で俺を見る。


「何?カンちゃん、反抗期?」

「あー、転職しようかな。」


俺の気も知らないマスターに対して、ボソッと呟く。
マスターは、俺が店を辞める事を酷く嫌う。
俺の前に雇っていた従業員がどいつも使えない奴ばかりで、やっと使えそうな俺が余所へ行くのが惜しいんだそうだ。
まあ、こんな安い賃金だから仕方ないと云えば、仕方ないのかもしれん。


「カンちゃん、ごめん。何か分かんないけど、俺が悪かった。」


慌てるマスターに、ちょっと気持ちが晴れた。本当にちょっとだけど。
しかし、朝井さんの隣に並んで座る二人を見ると、また気まずさが蘇る。