雑居ビル地下一階「クラブ シャングリラ」隣・後




神様は俺の心情を察してくれたのか、タイミング良くバックヤードの電話が鳴る。


「出てきます。」


マスターに一言断わって、早足でバックヤードに向かった。
ナイスタイミング。ありがとう、電話の主。


「はい、Bar detectです。」

『えっ?』

「如何なさいましたか?」


電話を取ると、まだ若い女性の声。
鈴を転がすとは、まさに彼女の様な声だろう。


『これ、ユウジの番号じゃないの?』

「生憎、当店にユウジという名前の従業員はおりませんが。」

何だ、間違い電話か。
それでも、あそこから抜け出せただけで感謝だ。


『だって、ユウジが…この番号だって。』

「お掛け間違いではありませんか?」

『そうよね。きっとそうだわ。ごめんなさい。』

「いえ、構いませんよ。それでは。」


あの気まずい雰囲気から抜け出させてくれた女神に、馬鹿丁寧に挨拶して電話を切る。
しかし、それから数十秒後また電話が鳴る。
電話の相手は、間違い電話の彼女だ。
また電話を取り、間違い電話である事を告げた。
このやりとりを、計10セットやったところで電話は鳴らなくなった。
どうやら諦めたようだ。

「しつこかった…。」

きっと、ユウジもこのしつこさが嫌になったんだろう。
分かる。今なら番号をウチの番号にしたユウジの気持ちが分かるよ。
バックヤードの椅子にぐったり座っていると、有栖川さんがやってきた。
出来れば、今は一対一で顔を合わせたくない。


「どうしました?」

「酒を零しちゃって。タオルありますか?」


見ると、有栖川さんのジャケットの下半分が濡れている。


「ああ、待ってください。今、持ってきますから。」


俺は立ち上がり、棚の奥からタオルを取り出そうとする。
何で、今使いたい物がこんなに奥に入ってるんだろう。
普段整理整頓をしていない事が、こんなに不便だったとは今思い知った。


「……聞いてたでしょ?」


ボソッと、有栖川さんが呟く。
やっぱり、感付かれていたか。
そりゃそうだ。扉の裏にいたんだから、気付かないわけがない。


「何をですか?」


しらばっくれてれば、その内諦め…


「トイレのやつ。」


るわけ、ないですよね。
有栖川さんの眼光が、一瞬鋭くなった。
ヤバい。俺、殺られる。


「申し訳ありません。」


頭を下げると、上から喉で笑う音がした。


「正直やね。」

「不可抗力とはいえ、聞いてしまった事は事実です。」


あくまでも、不可抗力を強調する。
だって、本当だもの。


「聞いたのが悪いって思うなら、ちょっと愚痴ってもいい?」

「俺で良ければ。」


俺は、有栖川さんに椅子を進め座ったところで、俺も向かいの椅子に座る。


「火村とは、学生の時からの付き合いなんだ。」


ぽつりぽつりと語り始めた有栖川さんの顔は、どこか無理して笑っているようで痛々しかった。


「いつ、セフレになったのかも思い出せなくらい、昔から火村とセックスしてた。」


有栖川さんの両手を組んで肘を付く格好は罪の告白にも似ていて、こんなに頼りない俺が神父役かと嘲笑う。
そもそも、罪でも何でもないただのすれ違いなのに。


「最初は、お互い性欲を満たせれば良かったんや。でも、それじゃ満足出来なくなった。俺は、火村を好きになってた。」


苦しそうな声。
髪を掻き毟り、俯く彼の顔は俺からは見えない。
しかし、俺は少しすっきりしていた。
あの火村さんに対する素気ない態度には、やっぱり裏があった、と。


「セフレとしての俺や親友としての俺は、火村が必要としている。そう思ってる。でも、恋人としての俺はいらない。」

「そんな事、分からないでしょう。」


トイレでの火村さんの呟きを知らない有栖川さんは、酷く間違った答えを出していた。
俺は、有栖川さんの何十分の一、下手したら何百分の一の時間しか共有していないけれど、答えは簡単だ。
火村さんは、有栖川さんを愛している。
なのに、それは本人には全く伝わっていない。


「分かるよ、その位。」

「そんな…。」


でも、それは俺の言う事じゃない。
火村さんが、言うことだ。
有栖川さんが、自分で気付くことだ。
何も言えない自分が歯がゆい。


「火村は、俺に愛情なんか持ってない。火村は、俺を都合のいい時に呼べる温かいダッチワイフくらいにしか、思ってないんや。」

「でも、さっきはあんなに…。」


自分を卑下する有栖川さん。
顔を見なくても分かる。今、有栖川さんは泣きそうだ。


「きっと、セフレじゃなくて親友が離れると思ったんやろ。俺は、セフレ兼親友やから。セフレが居なくなったら、親友も居なくなる。それが嫌なんやろ。」


違う。そうじゃない。そうじゃないのに。
俺は正解へのヒントすらも、上手く出せない。


「男の人とラブホに行った、って言うのは?」

「ありがちな話や。火村を忘れようとして、行ったことには行ったんやけどな、セックス出来なかった。」


顔を上げ、微笑む。
でも気付いているだろうか。
その笑顔は、酷く歪んでいる。


「どうしてだろう。火村が、振り向いてくれる事なんて有り得へんのに。」


振り向くどころか、貴方を熱視線で見つめています。
俺は、心の中でそう呟く。


「それなのに、まだ諦められない。」

「諦めなければ良いじゃないですか。いつか有栖川さんを見てくれる日が、来るかもしれません。」

「ないよ。そんな事。」


自嘲する有栖川さんに、こんな陳腐な言葉しか送れない自分が情けない。
でも、言わないよりはマシだろう。


「人間、何が起こるかなんて分かりません。可能性が無いわけじゃない。」


確実に得られるであろう、愛する人からの溢れんばかりの愛情。
それに気付くか、気付かないかの違いなんですよ。


「もっと、ポジティブにいきましょうよ。ね?」

「うん。」


二人とも、盲目過ぎてお互いが見えていないだけなのだ。
でも、それを指摘する程おせっかいじゃない。
二人の問題だ。たとえ時間が掛かっても、二人で解決すればいい。
いつか、誤解が解けると俺は信じてる。

俺に話した有栖川さんは少しスッキリした顔で、バックヤードを出た。
俺も、その後を歩く。
すると、火村さんが人一人殺せるような眼で、俺を見てくる。
嫉妬する男は、何て恐ろしいんだろう。
火村さんの殺気たっぷりの視線に気付いたマスターが、俺に寄って来て俺にしか聞こえない小さい声で話す。


「怖いな。」

「ええ。とっても。」

「お前、何したんだよ。」

「別に。」


ただ、有栖川さんの話を聞いてただけなんですけどね。
それだけで、あんなに睨まなくてもいいじゃない。


「それより、勝手にお店を連絡先にしないでください。ユウジさん。」

「げっ。さっきのって、それ?」


鎌をかけてみたら、やっぱりマスターの仕業だった。
一夜限りのお相手でも、誠意を持って最低偽名を使うのは止めましょうよ。
そして、店の電話に貴方の下半身のお手伝いさせないでください。


「はい。10回も掛かってきましたよ、ユウジさん。」

「それで、どうした?」

「全て掛け間違いって事にしときました。」


どうせ、あの女性が無理に連絡先を聞いて、仕方なく店の番号を渡したって感じがするし。
俺の勘だけど。


「ありがとう、カンちゃん。だから、大好き。」

「だったら、給料上げてください。」

「それは無理。」


上機嫌の朝井さんと、気持ちが晴れた有栖川さん、そして俺を睨みっぱなしの火村さんが立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。」

「じゃあな。」

「またのご来店、お待ちしています。」


有栖川さんが俺に手を振るので、軽く会釈する。
すると、有栖川さんの隣にいた火村さんが俺の手を掴み、自分の方へ引き寄せる。


「わっ。」


勢い良く引張るので、カウンターが腹に当たって痛い。


「アリスに近付いたら、お前の全ての臓器を鳥の餌にしてやる。」


一段と低い声で囁かれた言葉は、大学の先生とは思えない脅しの言葉だった。
怖い。凄く怖い。








こうして、嵐のようなお客様方はお帰りになった。
三人が出て行きドアが閉まると、俺はカウンターにグッタリと体を預ける。
ガランとした、店内には俺とマスターしかいない。


「ねえ、マスター。」

「何、カンちゃん。」

「俺に、涙忘れるカクテルを作ってくれませんか?」


出来れば、涙の数だけ欲しいです。


「えっ?何?カンちゃん失恋?泣いちゃった?」

「失恋ではなく、恐怖で泣きそうです。」


主に、さっきお帰りになった大学准教授さんのせいで。


「よく分かんないけど、カンちゃん頑張れ。」






そんな慰めの言葉より、給料アップしてください。マジで。