before
個室があるバー。
黒を基調にした内装と、所々に置いてある観葉植物が特徴である。
店内に流れるジャズも相まって落ち着いた雰囲気の店だ。
そこの一室で、赤星と片桐が向かい合って酒を酌み交わしていた。
先程までここにはもう一人、赤星の担当編集の塩谷がいたが明日は早く出社しなくてはいけないと、二人に断りを入れてさっさと帰って行った。
この状況に戸惑っているのは、片桐だ。
塩谷がいるから安心して来たのに、肝心の塩谷がそそくさと逃げてしまった。
内心、舌打ちしながらテーブルの向かいの赤星を見る。
赤星は、何が楽しいのかニコニコと満面の笑みで片桐を見つめていた。
「片桐ちゃんってさ、」
「何ですか?」
「俺の事好きでしょ。」
突然の出来事に、一瞬言葉を無くした。
「なっ……」
「ほら、やっぱり。当たった。」
赤星は、口元を大きく歪めて意地の悪い顔をする。
「そりゃあ、赤星さんの書く小説は好きですよ。勿論、人柄も好きです。」
片桐の顔が次第に青ざめていく。
唇もガタガタと震えて、上手く喋れない。
知られてしまった。
どうして。どうやって。
心の内に秘めた柔らかな想いを。
一生隠していこうと決めたのに。
よりにもよって、本人が暴かなくても良いじゃないか。
「片桐ちゃん。そういう“好き”じゃないって言わせたいの?案外、小悪魔だね。」
赤星の言葉に、片桐の目から自然に涙がほろほろと零れる。
涙を止めようと目を擦るが、どうやっても涙は止まる気配がない。
嗚呼。
この恋をまさか本人に馬鹿にされるだなんて。
胸が痛くて、痛くて、堪らない。
思わず、シャツの胸の当たりを握り締める。
「すまない。泣かせたかったわけじゃないんだ。」
「だって……、だって……、」
「うん。」
泣きじゃくる片桐の片腕を取り、ゆっくりと撫でた。
「きっ、気持ち悪いでしょう?」
「どうして?」
「赤星さんも、僕も、男だ。」
「うん。」
「男同士だなんて……」
「編集者が聞いて呆れる。マジョリティがそんなに正しいのか?」
赤星は、冷たい声で片桐を窘めた。
「でも…でも…そうじゃなくても、」
片桐は力なく首を振る。
「僕は、見てるだけで良かった。」
片桐が吐き捨てるように呟くと、赤星が先程まで撫でていた。
「そんな悲しい事言うなよ。」
寂しげに呟く赤星。
赤星の言葉が甘ったるい毒の様に、片桐を侵食する。
「なっ?」
「……はい。」
いつの間にか涙は止まり、赤星は片桐の手に指を絡めて微笑んでいた。
―――片桐は自分の事で精一杯で、赤星の手が微かに震えていた事に気付きもしなかった。
それからというものの、赤星と片桐は互いの家を行き来するようになった。
かといって、赤星と片桐が恋人になったのかというとそれは怪しい。
互いの家に泊まった事もあったが、性的な事は何一つ起こらなかった。
赤星が片桐の自宅に来たいと強請るから了承しただけであり、赤星が自宅に来いというから来ているだけなのだ。
自分の恋心は暴露されたが、赤星から明確な愛の言葉も告白もうけていない。友情と呼ぶにはあまりに脆く歪な関係。
片桐は、自分の恋心を人質に好いようにされているだけだと気付いたのに、あまり時間は掛からなかった。
「ただいま。」
赤星は、片桐のマンションに来るといつも『ただいま』と言って部屋に入る。
片桐はその言葉が、とても嫌いだった。
「おっ、今日も美味そう。」
「口に合えばいいんですが。」
赤星が家に来る時には、必ず夕食を作って赤星が来るのを待っている。
今日の夕食は、鯖の味噌煮だ。
初めて赤星が片桐の自宅を訪れた日、たまたまそうやって出迎えたら赤星がとてもご機嫌だったので、それが定番になりつつある。
「例え、不味くたって食べるよ。何ていったって嫁さんのご飯だからな。」
赤星は、いつも冗談めいた声で片桐を茶化す。
その度に、片桐の心は小さな音を立ててヒビが入るのだ。
「珈琲淹れてくるよ。可愛い君の為に、さ。」
そう言って赤星は立ち上がり、勝手知ったる片桐家のキッチンへと向かう。
先程の赤星の軽口に、片桐は酷く侮辱された気分になった。
リップサービスしてあげれば、喜ぶと思われている。
それはそうかもしれない。
赤星は、片桐の恋情に付き合っているだけだ。
赤星自身は、片桐の事を好きではないのだから。
嗚呼。何て空しいのだろう。
ソファに深く腰掛けると、はらはらと落ちる涙。
必死に止めようとしたが、流れ落ちる涙は一度箍が緩んでしまえぱ、しばらくは止まらない。
「君は泣き虫だな。」
「目にゴミが入ったんです。」
片桐がそう言い放つと、赤星が苦笑する。
「使い古された言い訳だな。」
珈琲をテーブルに置き、片桐の隣に座る。
赤星は、片桐の目尻を優しく撫でる。
赤星の言動を目で追い、その度に胸が締め付けられる。
「俺には、話せないのか?」
目尻から頬に向けて、ゆっくりと撫でる赤星。
その手を、仰け反って避ける片桐。
「強情な恋人だな。」
赤星の言葉に、片桐が苛立つ。
声を荒げて、赤星の胸倉を掴む。
「僕を恋人というなら、何故抱いてくれないんですか!」
言ってしまった。
言ってしまった。
とうとう、自分の醜い部分をさらけ出してしまった。
たがが外れた激情は、止まる事を知らず罵倒となって赤星に浴びせる。
「貴方は!貴方は、恋人の真似事をすればいいと思っているんだ!」
赤星にとって、自分は都合のいい玩具でしかないのだ。
だが、玩具には玩具の自尊心がある。
「どうせ、僕の事を体のいい御三どんくらいにしか思ってないのでしょう。」
声を荒げて、吠える。
吠える。
吠える。
涙で、赤星の顔もぼやけて見えない。
「愛してるの言葉もキスもないなら、僕は恋人じゃない。貴方の奴隷だ!」
胸倉を掴む腕が弱まり、腕の震えが大きくなっていくのが赤星にも分かった。
自分の曖昧な態度が、片桐をここまで追い詰めてしまった。
赤星は、片桐の腕を外しその掌に唇を落とした。
「愛の言葉も、キスも、それ以上も、」
ジョークのようにわざとらしく軽く囁いた言葉は、怯えの裏返しだ。
赤星は、怖いのだ。
愛しているからこそ、愛を語れない。
愛しているからこそ、キスもそれ以上の行為も出来ない。
臆病で、弱虫だから、安全な橋しか渡れなくなっている。
「欲しい?」
片桐は自らを奴隷だと言っていたが、赤星は本当に恋人だと思っている。
出来るなら体の全てを使って、愛しいと、片桐に知らしめたい。
だが、片桐を失う事が酷く怖い。
怖くて、何も行動が出来ない。
「馬鹿にしてるのか!」
赤星の言葉にカッとなった片桐が、赤星の頬目掛けて平手を打とうとする。
だが、腕の勢いは途中で弱まり、宙を泳ぐ。
「欲しい……。そりゃ、欲しいですよ……。」
醜い自分。
浅ましい自分。
どうせ、修復出来なくなる関係なら、赤星が嫌悪するくらいに粉々に砕いてしまおう。
「でも、」
片桐が欲望を漏らそうとする。それと同時に、赤星が片桐に触れるだけの優しいキスをした。
突然の事に、片桐は目を見開く。
「やるよ。光雄の欲しい物全部くれてやる。」
―――だから、どこにも行かないでくれ。
小さい声だが、確かに聞こえた。
自分が、赤星に望まれている。
その声に、先程とは違う涙が落ちる。
現金だと嘲笑えばいい。
でも、今こんなに幸せなのだ。
「嘘でもいい。夢でもいい。」
ポロッと出た本音。
赤星は縋るような声で、片桐を見つめる。
「冗談でも、そんな事言わないでくれよ。悲しくなる。」
「ズルい人……。」
真摯な眼差しに、片桐は何も言えなくなる。
赤星は、片桐を抱き寄せまたキスをする。
噛み付くような激しいキスを―――
片桐は、重い身体を起こして辺りを見回した。
いつものベッドに、いつもの風景。
だが、いつもの朝に一つ重大な事が違っていた。
「おはよう。」
赤星が、片桐のベッドに腰掛けていた。
着ているシャツに大きなシワが付いていたのは、昨夜の情事が原因だろう。
急に声を掛けられ驚いた片桐は、どもりながらも朝の挨拶する。
「おっ、おはようございます。」
よく見れば、片桐は産まれたままの姿に布団がかかっているだけの状態だった。
途端に恥ずかしくなり、布団にすっぽりと深く潜る。
「どうかした?」
「どんな顔をして、貴方を見ればいいのか分かりません。」
目だけを出して、赤星を見る。
赤星は、喉の奥で笑う。
「可愛い顔でにっこり笑ってくれればいいよ。」
そう言って赤星は、片桐の前髪を優しく分けて額にリップノイズを立てて口付けた。
「愛してる。」
突然、言われた言葉に片桐は驚くと同時に舞い上がった。
昨夜、あんなに愛されただけでも満足だったのに。
赤星に“愛してる”と言われるだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて。
片桐は、その5文字をゆっくりと噛み締める。
「昨夜言っても、信じて貰えなさそうだったから。……いや、俺の言葉も聞こえなさそうだったから、が正しいかな。」
照れ臭そうに笑う赤星に、片桐は至極真面目な声色で言い放つ。
「貴方の言葉は、一言一句聞き漏らしませんよ。」
赤星は、片桐の言葉に大笑いする。
片桐は可笑しな事を言ったかと、内心戸惑っていた。
「だから、君を好きになるんだ。」
赤星の愛おしげな目に、片桐はすっかりやられてしまって声も出なかった。
赤星は、片桐の頭を撫でてベッドから立ち上がる。
簡単な朝食を作ったので、ベッドまで運んでくれるようだ。
「それまで、ゆっくり寝てなよ。」
「はい、赤星さん……。」
片桐の言葉に、赤星は意地の悪そうな顔で笑う。
「学って呼んでよ。み・つ・お君。」
「……その内、呼びます。」
片桐は、今度は頭の天辺まですっぽりと潜った。
完全に姿の見えなくなった片桐。
赤星は、片桐の布団の足の方をめくり上げ、足のつま先にキスをした。
すると、くぐもった小さな悲鳴が布団の中から聞こえた。
「本当に君って強情だな。」
恋人同士のある朝の風景だった。