スマック




アリスが偶然見付けたという、路地裏の喫茶店。
モスグリーンの瓦屋根とレンガ造りの壁の一軒家で壁には蔦がつたっており。少し不気味な怪しい店のようにも見える。
入口前のアンティークの銅看板には、蝶々がはばたく姿が描かれていた。
喫茶バタフライエフェクト。
何のひねりもないこの店は、英国産の紅茶とノルウェー産のスモークサーモンを使ったサンドイッチが絶品なのだと、アリスは道中力説していた。
ドアマンのようにドアを開け、同行者の火村を店内に入るように促す。
中に入ると、店の中はカントリー調でまとめられていた。
壁には焦げ茶色の木の額縁に縁取られた花の絵が、出窓には赤い帽子を被った狼から白い兎が逃げる木製のマスコットと、植木鉢に入った造花が飾られている。
マホガニーのカウンターでは紳士然とした中年のバリスタが、サイフォンで珈琲を淹れていた。
ウエイターとウエイトレスは、同じデザインの黒いベストとソムリエエプロンを着ている。
カウンターの奥、厨房の壁に掛けられた可愛いペルシャ猫のカレンダーには休業日なのか、三つの日付に赤く丸が付いている。
人の良さそうな店員に窓際のボックス席を案内され、向かい合わせに座る。

「君を一度ここに連れて来たいと思ってたんや」

「それはそれは。ご高名な有栖川大先生に仰って頂けて恐悦至極」

注文してしばらくすると、店員が二人分のスモークサーモンのサンドイッチと火村の注文した珈琲、アリスが注文した紅茶を持って来た。
さっそく火村は、大きく口を開けてサンドイッチを頬張る。
サーモンの燻製の匂いが鼻を通り抜け、クリームチーズの塩気とトマトの酸味、玉ねぎのシャキシャキとした食感が絶妙なバランスを出している。
これは確かに美味しい。アリスが力説するのも分かる気がする。

「美味いやろ。」

自分で作ったわけではないのに、自慢気なアリス。
火村と同じように頬張ったアリスの口には、よく見るとクリームチーズが付いていた。

「顔に付けるなよ、いい歳なのに」

「んー、ありがとう」

火村は親指でアリスの口元を拭うと、その親指を当然のように舐めた。
アリスはいつもの事なので平然としているが、それを偶然見てしまった女性店員は少し動揺して目を見開いたが、そこはプロ。
その後は何事もなかったように、店内を歩き回っていた。
三十路男二人の恥ずかしい言動なぞ知らない男性店員が、追加でアリスが注文したチーズケーキを運んできた。
男性店員の胸元には、ペンに付いている鉄道のチャームが揺れる。
チーズケーキには、ストロベリー、ラズベリー、ブルーベリーがこれでもかと散りばめられており、チョコレートで蝶々まで描かれていた。
十代の乙女ならば黄色い声を出して喜んだであろう盛り付けだが、これを食べるのは三十代のおっさんである。
ばつが悪いアリスと、可愛らしいチーズケーキのギャップがどうしても火村の笑いを誘う。
声が震えてしまうのも、仕方ない事ではないだろうか。
「可愛いの選んだな」

「いいやろ。羨ましいんじゃないか?」

アリスもこの盛り付けの事は知らなかったようで、開き直ってケーキにフォークを突き刺す。
一口大に切られたチーズケーキを、再度刺して口元に運ぶが刺し方が甘かったのか、チーズケーキが落ちて皿に戻ってしまった。
一連の流れを目の前で見てしまった火村は、口元を抑えて笑いを堪える。

「さっ、流石、大先生。食べ方も豪快でいらっしゃる」

「一介の准教授には出来ない食べ方やろ」

「仰る通りです。……ははっ、ははは。あはははは」

笑いを堪え切れなかった火村は、大きく口を開けて声を出す。
対して、拗ねた表情をするアリスだったが、皿にUターンした一口大のチーズケーキを食べると、目を輝かせた。

「めっちゃ美味い。火村、これ美味い」

「デザート一つで単純だな」

「糖分は大事なんやぞ。君も食べるか」

アリスがチーズケーキを差し出すと、火村は躊躇なく口を開けた。
フォークから口を離し咀嚼する。
口の端を親指で拭う仕草は、妙に艶めかしいな、とアリスは火村の顔をうっとりと見つめた。

「うん、美味い」

火村が呟くと、アリスは子供のように誇らしげに笑った。
満面の笑顔につられて、こちらも破顔するしかない。
アリスは、通常のメニューの陰に隠れたデザートメニューが目に入った。
メニュー表には書いていない期間限定のものが、ポップな文字とイラスト付きでずらりと並んでいる。

「ごまプリン食べたいな。火村、これ食べないか?」

「残飯処理を俺にさせる気か?」

手書きで書かれたメニューには、確かにごまプリンの文字。
火村が睨みながら低い声を出すと、アリスは拗ねたように唇を尖らせた。

「言ってみただけですー。ちゃんと残さず食べるわ」

「また付いてる」

「すまん」

火村は呆れながらも、頬に付いたベリーソースを拭って親指を舐めた。
五時の時計の音が、店内に鳴り響く。
窓の外は、一面朱色に染まっていた。