欲しいものはどこにある?




シンデレラの魔法が解ける時間は、既に過ぎていた。
アリスの家で、差し向かいでだらだらと飲むアリスと火村。
アリスは体育座り、火村は片膝を付いて床に座る。
テーブルの上には、近所のコンビニで買った缶ビール数本とおつまみが乱雑に置かれていた。
今日は火村のフィールドワーク云々は関係なく、ただ何となくアリスの部屋で飲む事になったのだ。
そのやり取りの際に気を利かせてアリスが最近見付けた美味しい居酒屋に行こうと誘ったが、火村はそれを頑なに拒否した。
理由を聞けば、最近あったゼミ生との飲み会で思い切り学生に吐瀉物を掛けられたらしい。
今の火村は、ちょっとした居酒屋恐怖症だった。
アリスは一頻り笑った後、火村に酷く同情した。
可哀想に。教え子に恩を仇で返されたのか。

「そうだ、お前に報告しようと思ってたんだ」

「えっ、何?」

期間限定居酒屋恐怖症の火村がおもむろに携帯電話を取り出し、画面をアリスに見せた。
そこには、火村と同い年くらいの女性が写っていた。
女性は、黒髪セミロングで紺色に小花があしらわれたワンピースを着ている。
口元を上げて、お淑やかにに微笑む彼女。
隣には、火村が並んで立っていた。

「恋人が出来た」

何て事ないように、さらりと言い放つ。
アリスは、握り締めていた缶を更に強く握った。
スチール缶で良かった。
この動揺がバレなくて済む。
声が震えないように、慎重に口を開けた。

「へえ、可愛らしい人やな。どこで知り合った?」

「彼女は他の大学の講師なんだ。うちの大学と交流があって、まあ、そこで」

「良かったな、君にいい人が出来て。正直羨ましいわ。出逢いがない俺にその幸せを分けてくれ」

「お前にだって、その内出来るさ。そうだ。彼女がお前に会いたいって言ってるから、今度会わせるな」

口元を上げて嬉しそうに笑う火村。
なんて残酷な笑顔だろう。
十数年、火村の隣にいた筈なのに、こうやってぽっと出の女に取られてしまう。
お世辞にもお似合いとはいえない、安っぽくて地味な女に。
今、自分は笑えているのだろうか。
泣き喚きたいのを押さえて、表情筋を歪ませた。
笑え。笑え。これは目出度い事なのだと、脳を一瞬勘違いさせるだけでいい。

「うん、楽しみにしてる」

「どうした、元気ないな」

心配そうな火村から目を反らし、手元のビールを煽る。

「いやあ、君に先を越されたのが余程ショックらしい。ここまで心が狭いとは、自分でも思わなかったわ」

自嘲の笑みを浮かべるアリスに、火村は眉をひそめた。

「違うだろ、アリス」

「えっ、何が?」

「そうじゃないだろ」

「すまん。話がよく見えん。もう少し詳しく説明してくれ」

火村は酔っているのだろうか。
無表情でおかしな事を言い出した火村に問うと、火村は不機嫌そうな顔でビールを一口飲んだ。

「お前は、お前より先に俺に恋人が出来たから落ち込んでるんじゃない。お前は、俺に恋人が出来る事自体がショックなんだ」

「一体何を……」

「お前、俺に惚れてるだろ」

火村の言葉に、凍り付く。
気付かれていた。
この浅ましく汚らわしい思いを、隠してきたこの厭らしい思いを、火村は知っていたのか。

「何年お前を見てきたと思う。何年、傍にいたと思う」

鋭い眼差しが、アリスに突き刺さる。
犯人に向けるそれに似ていて、唇が恐怖で震える。

「お前は、俺に惚れている」

「ちがっ……、その、あの、…………」

言い訳の言葉も思い付かず、吃りながらいくつかの指事語を呟くだけしか出来なかった。
すっかり怯えたアリスに、火村は苦笑する。

「そう怖がるな」

先程とは打って変わって優しくなった声に、アリスは少し安堵する。

「……そんな訳……」

「誤魔化すなよ、アリス。俺は本心が聞きたい」

「だって、……俺は、俺は君を……騙してたんや」

「ああ」

「親友の振りをして、心の中では君が、君がずっと好きで、それで、」

「それで?」

「いつか君が俺のものになるんだと、期待していた」

嗚呼、ついに言ってしまった。
傲慢で自分勝手な望み。
一度口に出してしまえば、するすると溢れ出る願望。

「君に一番近い人間は俺だから、いつか将来的にはお前は俺を選ぶだろうって」

「でも実際は違った。だから、動揺したんだな」

「そうや」

俯くアリス。
もう、火村の顔なんて見れない。
缶をテーブルの上に置いた音。
続いて、火村が動く衣擦れの音。
おそらく、立ち上がったのだろう。
もう、自分に幻滅してこの家から出て行く。

―――もうおしまいだ。

アリスは、目を強く瞑った。

「そうか。なあ、アリスこっちを向いてくれ」

頬を優しく撫でる感触。
この空間には、アリスと火村しかいない。
つまり、この手の持ち主は一人だ。
お情けのつもりなのだろうか。
そんな、中途半端な優しさならいらないのに。
アリスは、首を大きく振り火村の手を拒絶した。

「お前の顔なんて見れるか、阿呆」

「何故だ?」

分かってるくせに!
アリスは、怒りのあまり顔を上げて火村を睨み付けた。
アリスが顔を上げた事に安堵し、顔を綻ばせる火村。

「折角、恋人同士になったんだ。もっといい顔しろよ」

喜色満面の火村。
この男は何を言っているのだろう。
何故、愛しそうに自分の頬を撫でるのだろう。
勘違いしてしまう。
希望を持ってしまう。
なんて、狡い男なのだろう。

「……冗談はよしてくれ……」

小さな声で呟いた抵抗の言葉は火村に聞こえなかったのか、何の反応もなかった。
その代わり、火村が自分の携帯電話を弄る。
アリスに画面を見せながら、あの女性とのツーショットの次の写真を写し出した。
そこには、先程の女性と火村とは違う男性の姿。
火村との写真と比べて距離が近く、女性も男性も満面の笑みを浮かべている。

「彼女の本当の恋人。俺の同僚だ」

確かに、火村との写真よりこちらの方が恋人らしい。
じゃあ、何故火村はあんな嘘を吐いたのだ。

「彼女には悪いが、少し利用させて貰った。俺の想い人は目と行動は雄弁なのに、商売道具の言葉ではさっぱり愛を伝えてくれないからな」

苦笑する火村の目は、どこまでも優しい。

「いい加減、待つのには飽きたんだ」

嗚呼、こんな拙い罠に引っかかるなんて悔しい。
せめてもの強がりを、ぼそりと呟く。

「……君から言ってくれれば良かったのに」

「お前が、いつも今にも告白しそうな顔で見てくるから悪い」

火村の言葉に、アリスは口を尖らせて機嫌が悪い事をアピールした。

「どんな顔や。そんな顔した覚え……」

アリスの言葉を塞いで、掠めるようにキスをする。
柔らかくて温かい唇の感触。

「こんな顔」

目の前の火村の顔は、いつにも増して男前だ。
これが恋する者の欲目というやつなのだろうか。

「愛してるよ、アリス」

耳を擽るバリトンで紡がれる愛の言葉。
思わず顔がにやけてしまうのも、仕方ないだろう。