贋作




朝目覚めたら、部屋の中から煙草の匂いがした。
俺は、喫煙者でないのにおかしい。
勿論、ここ最近の来客にも喫煙者はいない。
では一体誰なのだろう。
ベッドの中で頬を掻いていると、いきなり寝室のドアが開いた。


「目が覚めたか、アリス。」


ドアの前には、顔の整った男が立っていた。
俺は、アリスという外人女みたいな名前でもないし、こんな男知らない。


「だっ、誰ですか貴方は。」


そう言うと、男は溜息を吐いた。


「いいから、飯食え。話はその後だ。」


リビングから、香ばしい匂いが漂ってきた。
そう言えば、昨日から何も食べていない。
見知らぬ男が作った物―しかも不法侵入者なのに―だが、無性に腹が減っていてその言葉に頷いた。


「着替えますから、そこ閉めて下さい。」

「分かった。」


男は、ドアをゆっくり閉めた。
俺はベッドから降りて、クローゼットを開ける。
適当な服に着替えて、リビングに向かう。
そこには、先程の男が朝食を作っていた。
勝手に人の家で何をしているんだ。
そう言いたかったのだが、何故か声に出来ない。
立ち尽くす俺に気付いた男は、淡々と喋り続けた。


「いいか。お前の名前は有栖川有栖だ。ここの住人で、ミステリ作家。」


何を言ってるんだ、この男。
俺は、有栖川有栖なんてヘンテコな名前でも、ミステリ作家でもない。


「違う。俺は、村上竜二だ。職業は公務員だ。そんな奇抜な人間じゃない。」


そう言うと、男は目を丸くした。


「公務員ね。警察官か?」

「違う。役所勤めだ。A県A市の市役所の広報課だ。」

「そうか。でも、ここは大阪だぜ。」


この男は頭がおかしいのか?
ここは、A市内の俺のマンションで大阪ではない。


「馬鹿じゃないのか。ここはA市だ。」


男は、新聞を差し出した。
俺が取っている地方紙・・・じゃない。


「何だよ、これ。」

「だから、言ってるだろう。ここは大阪だ。」

「分かった。お前が、ここにこの新聞を持ち込んだんだろう。」


俺がそう言うと、リビングの厚いカーテンを開けた。
そこには、俺のいつも見ている風景はない。
窓に近付き、町並みをしげしげと見る。


「分かっただろう。」

「お前がA市から俺を連れ出したのか?」

「何を言ってる。お前は、ずっと前から大阪育ちじゃないか。」


違う。この男は一体何を言ってるんだ。


「馬鹿じゃないのか。俺は、A市から一歩も離れた事はない。」


男は、何故か寂しそうな眼をしている。


「じゃあ、昨日は何をしていた?」




何って、そりゃ・・・あれ?


―――思い出せない。



「思い出せないだろう。昨日の事も、何もかも。」


男は俺の心を読んだ様に、言い当てた。


「お前は、公務員でも村上竜二でもない。」





「お前はミステリ作家、有栖川有栖だ。」


信じられない。
でも、俺は俺の人生のどの場面も思い出せないでいた。


「でも、違うものは違う。俺は、村上竜二だ。」

「証拠は?」


証拠?
運転免許も持っていない俺には、身分証明なんて出来るものが一つもない。
途方に暮れていた俺は、一つだけ思い出した。


「そうだ。俺の友人に火村って男がいる。大学の友人だ。そいつなら、俺が村上だって信じてくれるよ。」

「やってみろよ。」


俺は、携帯電話のメモリーから火村の文字を見付けて、直ぐに電話を掛けた。
それと同時に、俺の真正面の男の携帯電話が鳴る。
男はそれに出て、口元を歪ませる。


「『もしもし。』」


目の前の男と、電話口で同じ声が同じ様に話す。


「何で・・・。」


男は、電話を切ると悲しそうに笑う。


「だから、言っただろう。」

「何で、お前が火村の携帯電話を持ってるんだ。」


俺の知っている火村はこんな男じゃない。
でも、俺の知っている火村が頭の中にイメージ出来ない。


「違うよ、アリス。そうじゃない。お前が村上じゃないんだ。」


俺が、村上竜二じゃない?
なら、今までの人生は何だったんだ。
思い出も、友人も何もなくなったけど、確かに俺は俺だ。


「アリス。いや、今日は村上か。」


今日は?
男の言葉が引っかかる。


「お前は、何か精神的なショックで有栖川有栖である事を辞めた。」

「何かって何だよ。」

「それは知らない。俺がここに来る前に、既にお前は有栖川有栖である事を辞めていたからな。」


男は、煙草を取り出し火を点けた。
ああ、寝室で匂ったのもこの香りだ。


「最初は、京都の大学生だった。アリスは作家だったから、俺は登場人物になりきっているのだと思っていた。」


男は、辛そうに髪を掻き毟る。
俺はそれをただ見ている事しか出来なかった。


「でも、違っていた。その翌日にはF市のホストだったし、その次はN県の農家だった。」






「アリスは次のキャラクターを探していたんだ。有栖川有栖の次のキャラクターを。」






「キャラクター?そんな事、実際出来るわけないだろう。」


馬鹿馬鹿しい。
この男はSFの見過ぎなんだ。
男は、さらに悲しく笑う。


「でもな、全部一緒なんだ。どれも付け焼刃だから、思い出を一つも持っていない。」


そうだ。
まさに今の俺がそうじゃないか。
ならば、やはり俺が有栖川有栖なのか・・・?


「そして皆、大学時代の友人が火村英生だと言っていた。」


嗚呼、それも当たっている。


「なあ、アリス。どうすればお前はアリスだって信じてくれるんだ?」


訴えるような眼をする男に、俺はたじろぐ。
そうか。
この男は、ただ有栖川有栖に戻ってきて欲しいだけなんだ。


「本当に、俺は有栖川有栖って奴なのか?」

「当たり前だろう?こんな事、冗談で言えるかよ。」

「分かった。なら、俺は有栖川有栖として生きるよ。」


火村は、小さく首を横に振った。


「やっぱり良いよ。どうせ、明日には別の人格になってる。」

「諦めるなよ。さっきまで、俺を有栖川だって認めさせたかったんだろ?俺は、一日だけでも有栖川でいるよ。」

「ありがとう、アリス。」


そう笑う火村の顔は、絶望と喜びが混じり合っていた。
どうせ一日しか持たない人格ならば、体の持ち主らしく振る舞ったって良いじゃないか。









今日一日、俺は火村に教わりながら有栖川有栖で居続けようと思う。









「贋作の裏」